2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧
「非同期コミュニケーション」を取る上では、「同期」のそれよりも、はるかに相手との関係性への信頼というものが求められる。相手と、どのようなコミュニケーションを取りたいのか。どのような、関係を築きたいのか。それは自分自身をどう信頼するか、とい…
意味なんてなくてもいい。伝える意味などなくても、伝える。何でもないことを、伝える。ただ、そんな単純なことなのかもしれない。それでいいのかもしれない。
「バイバイ。また、あの森で会おうね」再び会えることを信じてやまない息子にとって、別離とは慣れる類いのものでもないのかもしれない。「また、会おうね」私も、そう繰り返した。
人はときに、「痛み」で誰かとつながろうとする。癇癪を起こしたり、ネガティブな感情をぶつけたり、方法はさまざまだ。目に見えるその結果は、影絵に過ぎない。本命は、そこじゃない。
けれど、「かなしい」と「いとしい」は同じ語源のように。秋が来る。冬が来る。春が来る。かなしく、またいとおしい。
人の心の成長は、「依存→自立→相互依存」というプロセスをたどる。これは、個人の心の成長においてもそうであるし、誰かや何かとの関係性においても、同じようなプロセスをたどる。
さて、断酒662日目である。昨日でこのブログも3周年を迎えたが、断酒もまた1年と10か月近くになる。ここで書き始めてからの半分以上が、断酒している期間になるらしい。
たとえ、これぽっちも書く才能がなかったとして。たとえ、どんなに未熟で不出来だったとして。たとえ、多くの人に読まれることがなかったとして。そうだったとしても、ここで書き続けてもいいんだと思います。だって、いま、これを読んでいるあなたがいるの…
朝の外気が、少し変わったようだった。夏が本気を出しすぎたような、体温を超える危険な暑さの日が続いていたが、昨日の夕方に降った夕立から、何かが変わった。打ち水をしたように、ぎらつくような外気温が少し引いたような。気づけば、今日は「処暑」。暑…
見上げれば、陽光の線が何本も走る、不思議な空の色が広がっていた。その色は、夏のそれというより、どこか澄んだ気配を感じさせる。徐々に、空も澄んで高くなっていく。まだ残暑は厳しい。されど、処暑も近い。
やっぱり、いい曲だな、と改めて思う。映画「グレイテスト・ショーマン」の劇中歌である「Never Enough」のことである。映画「グレイテスト・ショーマン」といえば、強いメッセージ性を持つ「This Is Me」が大ヒットしたが、この「Never Enough」もまた心に…
「行けるときに行っておけ」という金言がある。あるいは同じように、「推しは推せるときに推せ」という金言がある。その通りだと思う。
あれは、小学生のいつの夏休みだっただろう。「クロールで25m泳げない生徒のための夏休み特別講習」があった。多くの子たちがクロール25mをクリアし、背泳ぎやバタフライに挑戦していく中、私は息継ぎがどうしてもできなかった。
なぜ、神社を訪れると、こうして手を合わせ、時に祈るのだろう。よく分からないけれど、それをしてしまう。不思議なものだ。それでも、いまの世にこうして残っていることは、意味があることなのだろう。
何の衒いもなく、「おとう、クッパをやっつけるとこだけやりたいから、そこまでやって!」とお願いしてくる息子を見て、つくづく思う。小さな私には言えなかった台詞だ。時代は、変わった。頑張って、一人でどうにかする時代は、もう終わったんだ。
夏の終わりの蝉の声といえば、ツクツクボウシだった。今年は、まだツクツクボウシの声を聞いていない。夕暮れ時に、かの蝉の声が聞こえてきたら、少しは涼しくなるのだろうか。
ほんの、7,80年前、いまとは全く違う空が、広がっていた。そう思うと、私を縛る、この不自由な諸々の価値観が、脈々と受け継がれてきた愛のあかしなのかもしれず、どうしようもなく、いとおしい。
CHAGE and ASKAの「HEART」の歌い出しは、どこか語りかけるようだ。もし、あのとき、あの場所で、振り向かなかったとしたら。あの選択をしなかったとしたら。そうしなかったとしても、結局、どこかでそうなっていたのだろうか、と。
空の青さは、祈りを捧げたくなる。一雨降った後の風は、どこか秋の気配を孕んでいた。いつも煩いはずの蝉の声は、不思議とあまり聞こえなかった。
いまそこにある生を祝福し、その隣にある死を悼む。それは、どこか空の青さと雲の白さのグラデーションを眺めることに似ている。
断酒も、もう648日を数えるまでになった。何のために始めて、どこへ行くのか、分からない。時にそんなことも、あってもいい。
感情とは、特別なものでもなく、ただ浮かび、ただ消えていくもの。それは、生理現象のようにただ繰り返されるもの。それが生まれることを拒むことはできず、それを感じることでしか流していくことはできない。
自分の呼吸に対するイメージングについて。瞑想なり、あるいはストレッチなりをしていると、自分の呼吸に意識が向く。自分の呼吸の長さであったり、深さであったり、あるいは乱れであったり、そうしたものを感じる時間。
「コロ助にしたって、何か別の理由にしたって。ほんとはそうしたかったのに、イヤイヤしながら、『しょうがないよねー』ってそれをしてるのは、何かコントのようというか…みんな、満員電車とか好きな人なんていなかっただろうに、何か理由をつけたがる」
秋、立てる日。暦の上では、もう秋が来てしまったようだ。七十二侯では「涼風至すずかぜいたる」、夏の暑い風から、秋の涼しい風が吹き始めるころ。暑さはまだまだ厳しいが、ほんのわずかな風の色の移り変わりに、先人たちは心を寄せてきた。
思ったよりも早く着いた。すでに夏の力強い陽射しが、熱田神宮の杜を照らしていた。車のドアを開けた途端に、蝉の声がシャワーのように降ってきた。
誰にでも、五感の中で鋭敏な感覚と、そうでない感覚がある、と以前書いたような記憶があるが、私にとって聴覚はどうなのだろう。確実に鈍いと思われるのが「嗅覚」なのは、これまでの経験からして何となく分かるのだが、それ以外はどうなのだろう。
最近のランニングは、殊更にゆっくり、ゆっくりと走っている。極力スピードを出さないように、ゆっくり、ゆっくり、一歩一歩、踏みしめるように。
それにしても。夏色が、足りない。もっと。もっと、夏色を。
その名と名の間で区切ることのできないものが、確かに存在することもまた、人の情感と似ている。薄紅と撫子色の間に、その朝顔の色があるように。いとしさとかなしさの間に、愛しさがあるように。