2019-07-01から1ヶ月間の記事一覧
夜明けも早々からの元気な蝉の声で、目が覚めた。夏の朝は早い。
今年の5月の末、夏のような陽気の下でディープインパクトの血が爆ぜるのを観られたのは、僥倖だった。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
相済みません。お詫びから入ります。締め切り守れず、であります。リスケさせていただきます。
夏は、どこへも行っていなかった。あなたは、どこへも行っていなかった。 どこへも、行く必要がなかった。
ふと、あの夢に出てきた友人の憂いを持った顔が気になった。きっとまた会えるのだろう、と思いながら私はケースを閉じた。
「直近の印象って、やっぱり強いんですよね。そして、その印象をもとに過去の記憶も簡単に上書きされてしまう。梅雨明けみたいなものもそうですけど、それって人間関係とかでも言えそうですよね」
「美形とされる顔」のように、年月を経れば変わってしまう美しさもある。けれど、古今東西変わらない美しさというものも、存在するのではないか。コレッリの「クリスマス協奏曲」は、まさにその示現のように感じるのだ。
あの円頓寺のアーケードの下で、雨の音を聴きながら私が覚えた情感は、もしかしたらコメントを頂いた友人たちの情感も混じっていたのかもしれない。
名古屋市西区は那古野にある、円頓寺商店街を久しぶりに訪れた。
とてもしあわせな夢を見た気がした。まどろみの中から出たのか、それとも夢うつつの中にいたのか、判然としなかった。けれど、なにかしあわせな満たされた感覚だけは確かなようだった。
才能とは、絶望しないこと。それは言い換えるならば、結果に、固執しないこと。ただ、やり続けること。その行為の中に、喜びを覚え続けること。好きという情熱に、降参すること。
「ありがとう」の反対は、「当たり前」。「ある」ことに感謝できるようになるためには、「ない」を経験する必要がある。
新しい何かを始めたい、何かに挑戦したいと思っても、なかなか踏み出せないとき。それは、単にいまのあなたにとって「必要がないから」。そんなときは、無理しようとするよりは、いまの生活だったり仕事だったりを、丁寧に取り組む方がいい。
いつか訪れる最期の日になっても、それをやるだろうか?私は、書き続けたい。自分の適性や役目が何であれ、向いていようが向いていまいが、結果がどうあれ、書き続けたい。
誰かのミスは、誰かを幸せにするのだろう。人はよくミスをしないでいよう、完璧でいよう、としてしまうけれど、ミスとは「凹んだ」部分であり、結局それは誰かに「与えさせる」ことのできる部分なのだろう。
夏の福島競馬場を彩る七夕賞に寄せて、競馬ブログ&WEBフリーペーパー「ウマフリ」さんに寄稿させて頂きました。たくさんのご感想を頂き、誠にありがとうございました。
ご感想いただきまして、誠にありがとうございました。
ありがとう。また、遊びたいな。
がんばれ、がんばれ。周りなんて気にするな。ただまっすぐに、自分のレーンを走れ。そのまま、駆け抜けろ。
それでも、私は書きたい。書き続けたい。
それでも。私は、書きたい。私の言葉を、好きだと仰って下さる方のために。書くことを続ける才能を与えてくれた、両親のために。
霧が、晴れた。 女 は、そういえば今日だったな、と思った。 「大きな川」を意味する名を持つこの村の、奥深く。 その名の通りの「大きな川」は、時の流れと同じように滔々と今日も流れる。 大きな白い帽子を被った山々は、今朝も雄大にそびえ立つ。 そのさ…
私、大嵜直人が、これまでの書いてきたものの記録です。執筆に関するお問い合わせ先は、末尾に記載しております。
2018年の11月末、私自身の物語を書いた。 kappou-oosaki.hatenablog.jp あれから半年が経って、私自身の物語=ライフワーク・ストーリーをもう一度書き直した。 どうも今の私は具体的な目標や願望実現にあまり興味が湧かないようで、生き方、在り方の…
二択のうちのいずれかにある正解を選ばないといけないと思うとき、人は迷い、選択に怖れを抱く。けれども、その選択がどちらも正解だったり、どちらも不正解である場合だってある。大切なのは、どちらが正解かで悩むことよりも、怖れよりも喜びから選ぶこと…
ダイヤモンドの輝きの本質とは何の関係もないように。汚泥の中だろうと誰も知らない山の中だろうと、咲いた花の美しさは変わらないように、あなたの本質の素晴らしさは失われない。
日が沈むのも気づかずに、走り回ったあの頃のように。もっと、熱を。もっと、光を。
やりたいことが、見つからないとき。好きなことが、わからないとき。「どんな感情を味わいたいか」について考えてみることが、一つのヒントになるのかもしれない。
ヒトカラって、自分に向けた応援歌を歌う、ということなのだろう。また行こう。感情を、解放しよう。 ヒトカラ万歳。
ほんとうに誰かに「与えている」ときというのは、意識しなくても「与えている」状態なのかもしれない。「与えること」とは、メソッドで表せる何かではなく、在り方なのかもしれない。