2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧
2020年ナッソーステークス。日本から果敢に挑戦したディアドラは敗れたが、勝ったのは父・ディープインパクトのファンシーブルーだった。偉大な父の命日に、イギリスから吉報が届いた。
ノートパソコンをThinkpadに替えた。このキーボード。この唯一無二の、打鍵感。20年前の昔に触れたそれを、思い出させてくれる。
生まれたときに世界から祝福されたように、自らを祝福するように。始まりと終わりは、いつも同じ風景だ。なればこそ。いまこの夏を、祝福し、味わうことに意義があるのかもしれない。
誰しもが自分自身のことを知りたいと思う。自分の価値や才能もしかり、正直な気持ちもしかり。自分の内面に深く潜っていく手法もあるが、反対の方法もまた有効なように思う。すなわち、自分の周りを見て、自分を知る、というアプローチである。
私たちが何気なく、「当たり前」にしていることは、思ったよりもすごいことかもしれない。人に話すということは、その「当たり前」の概念を破壊してくれる。「当たり前」が「当たり前」でないように見ること。それを、「価値を見る」と言い換えることもでき…
私にとって、北方謙三さんの「破軍の星」(集英社文庫)は、そんな何度も読んでいる作品の一つだ。滅びの美学。登場する男が、いちいちカッコいいのだ。
日々の中で、取りこぼしている幸せは、ないだろうか。傘をさすことも、雨に濡れることも、病院に歩いて行くことも、朝目覚めることも。何もかもが、当たり前であるはずもない。探しているものは、そこにあるのだ。
さて、断酒630日目である。月数にすると、もう21か月目に入ったと思うと、感慨深い。心身面では、特に記す変化もなく、淡々としている。
一般的に男性は競争を好む。勝ち続けなければ、存在意義を失う。ところが、競争に敗れた男に「色気」が宿るのは、なぜなのだろう。長渕剛さんの「しゃぼん玉」を聴いていると、そんなよしなしごとを考えてしまうのだ。
あまりにも短き、夏よ。この身を焦がすくらい、暑くあってくれ。その熱を、忘れぬように。
つながり、つながる、つなげる。人とのつながり、人とつながる、人と人をつなげる。人に限らず、何かとつながっている。「運命思考」を持つ人は、そんなことに喜びを覚えるようだ。
ありがたい感想をTwitter上で見かけた。こういうのを、書き手冥利に尽きる、というのだろう。ありがたい限りだ。
嫉妬。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、気分が悪くなった。小さな我が子に、嫉妬している?不惑も近くなって?どうしようもなく恥ずかしいが、どうやらそうらしい。
明日は3回中京開催の掉尾を飾る、中京記念。中京のマイルを舞台に、サマージョッキーシリーズ、サマーマイルシリーズを形成する一戦。そんな伝統のGⅢの思い出に寄せて、ウマフリさんに寄稿させていただきました。
誰にも頼まれていなくても、それが一銭にもならなくても、なぜか続けてしまうもの。そうライフワークを定義するのならば、「暑中見舞い」というのは私のライフワークかもしれない。
あの丸い看板の向こうに、日は落ちていく。世界を黄金色に染めながら。燃えるように、盛るように。それでいて、うだるように、悶えるように。夏、そのままに。
ほんの、小さなこと。ほんの、小さなことでも、 やらなかった後悔というのは、残る。それは時に、失敗した痛みよりも、苛烈に自分を責める。ほんの小さな、「ふと」で十分なのだ。それに従うこと。
「友だちっています?」「…は?」「は?じゃなくて。誰か友だちっています?」
花は、ただ咲く。納期や締切に追われることなく。ただ、咲く。そんなふうに、在りたい。
アガパンサス。霧雨に濡れる姿が、美しかった。紫陽花といい、紫の色の花には、なぜ雨が似合うのだろう。
ただ、時を重ねることを許すこと。ときにそれを、熟成と呼ぶのだろう。そして、ときにそれを、自分を愛することと呼ぶのだろう。
瞬間の積み重ねは、永遠なのだろうか。それは時間の流れと同様に、どうも疑わしい。いまある瞬間、それが永遠のようにも思える。あの日、あの場所を訪れた私は、いまもそこにいる。
時を重ねるごとに、好きな音楽との関係もまた深まっていく。音楽の味わいは、時間とともに。それはまた、生きることの喜びと同義でもあるのだろう。
願いも、望みも、目標も、なくてもいい。ただ、揺蕩うように。ありのままを、ただそのままに。そうしていると、時に誰かの望みを叶えていることもあろう。
梅雨が明け、本格的な暑さがやってくる「小暑」。温風至、あつかぜいたる、の時候。
「止める」のではなく、「それでもいい」と受け容れること。また同じ「パターン」を繰り返してもいい、と。
モンゴル800の「小さな恋のうた」を聴いたのは、 20代半ばの頃だっただろうか。久しぶりに会った友人の車で、オーディオから流れていた。「いいんだよ、この歌。ノレる」そう言って、鼻歌でサビを歌っていた友人を思い出す。
ラジオから流れる投手戦は、まだ続いていた。あの頃の小さな私も、エースの力投に声援を送っているのだろうか。この大きな高架下を過ぎれば、もうすぐ名古屋駅だ。
週間天気予報が雲と傘で埋まる中で、奇跡的によく晴れた文月の日。一宮市は真清田神社を再訪した。
失うということは、再生への裏返し。なくなるということは、またつくることができるということ。別れるということは、また会えるということ。そんな風に、少しずつ怖れを緩めていくこともできるのだろう。