大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

四季五感

露白むころ、澄んだ秋の空気に満たされて。

澄んだ空気に満たされる、白露のころのようです。季節の移ろいは、それだけで観る者を癒してくれるようです。

旬の時期は、いつもあっという間に過ぎていくから。

目に映る、過ぎ行く夏のかけら。五感に訴える、秋の訪い。寂しさとともに、そんなものを愛でていきたいと思う、夏の終わりのようです。

立秋の訪れは、どこか特別な調べとともに。

立秋の日自体は、何のこともない、いつもと変わらない一日なのかもしれないのですが。それでも、この夏から秋へと移り変わるこの一日は、どこか特別な調べを持つ日なのです。

盛夏の空に、過ぎゆくものを想うこと。

今日は、なんのこともないエッセイです。 なんとなく、今日の空のことを、書き残してみたいと感じたのです。 それにしても、毎日暑いです。 私の住んでいる名古屋でも、ここ数日は体温よりも高い気温が続いておりました。 まだ梅雨明けの報も聞いていないの…

夏の夕暮れ、この時期だけの色合い。

空を見上げる時間というのは、不思議なものです。なんだか、人にとって必要不可欠な時間のように感じます。

七夕、夜空を見上げて星に願いを。

今日は、七夕ですね。今日のあなたのお住いの地域は、晴れているでしょうか。ぜひ、少しでも夜空を見上げる時間を取ってみては、いかがでしょう。

半夏雨に、故郷を想う文月のはじまり。

早いもので、もう7月に入りました。時候では、夏至の末候の「半夏生(はんげしょうず)」になります。

夜の雨に、蛍を想うころ。

七十二侯では、「腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)」の時候。蒸れて腐りかけたような草が、蛍になったように見える。そんな情景が浮かぶ、実に美しい時候の名です。

入梅、記憶を呼び起こす色と音。

紫陽花の青さは、どこかやさしく、そして懐かしい色をしています。そして、このしとしとと降る雨の音は、いつか雨のなかを歩いた記憶を呼び起こしてくれるようです。

皐月の忘れものを愛でる、芒種のころ。

時候は、「小満」から「芒種」に移るころです。あらゆる生命が天地に満ち始めるという「小満」の次にくるのが「芒種」なのが、季節のめぐりの不思議なところです。

時には、昔の話を。 ~雨に濡れる赤い旗の記憶

雨が降れば、雨を見てもの思いに耽る。それもまた、季節を愛でる、ということの一部なのかもしれません。

少しクールダウンの、小満のとき。

ずいぶんと暑い日が続いたと思えば、今週は少し風が涼しく感じます。時候は、「小満」。ありとあらゆる生命が、天地に満ち始める時期です。

過ぎ行く春を愛でるような、そんな言葉を自分自身にも。

過ぎ行く、卯月。どんなことがありましたでしょうか。その一つ一つによい、悪いのラベルを貼るよりは、「ありがとう」と手放してみてはいかがでしょうか。過ぎ行く春を、そっと愛でるように。

その色に熱を感じる、穀雨のころ。

少し、気温が下がる日が続きました。とはいえ、時候は「穀雨」のなかごろ、「霜止出苗(しもやみてなえいづる)」の時候。霜も降りなくなり、苗が育つころ。田植えの準備に、農家が忙しくなる時候です。棚田で稲作を育てている私の知人を、思い浮かべるころ…

穀雨のやさしい雨は花を育て、その花は人の心を潤す。

今日から、時候は「穀雨」に移ろいゆくようです。恵みの雨が地上に降り注ぎ、たくさんの穀物がすくすく育つ時期。

虹が見えるのは、虹を見ようと思っていないときがほとんどだから。

七十二候では「虹始見(にじはじめてあらわる)」の時候です。新緑の季節が深まるにつれて、空気が湿ってくることが多くなり、空に虹がかかることが多くなる時期です。

桜が散り、そしてツツジが咲くこの世界の美しさ。

桜が散り、ツツジが咲く、この世界の美しさ。それは、あなたがあなたでいることが、何よりも美しいことのあらわれのようにも思えます。

日ごとに濃くなる青色が、初夏を運んでくる。

日ごとに濃くなっていく青色が、初夏を運んでくるようで。この時期を指し示すような、その青色。その青さを、愛でていたいと思うのです。

清明のころ、どこか置いていかれたような気がした、以前の私のおはなし。

時候は、「春分」を過ぎて「清明」に入りました。天地万物が清らかで、明るく輝く時期。一年で最も気持ちのいいこの時期ですが、以前の私はどこか苦手な季節でもありました。

葉桜の美しさについて。

桜の散り際になると、葉桜を見ることができます。咲きかけや満開の桜もいいのですが、この葉桜もまた、風情があっていいものです。そして葉桜は、実にいろんなことを教えてくれるようです。

この春のように、混沌なかにあるときこそ、生命が芽吹くとき。

先が見えなくて、視界がぼやけているとき。わけのわからない、混沌のなかにいるとき。そうしたときが、もっとも生命の力が芽吹いているときのように思うのです。

弥生の終わりに、自分をねぎらう言葉を。

草木は芽吹き、花は咲き、何かと周りも気ぜわしくなる時期ではありますが。あせらず、ゆっくり。身体を気遣う時間を持つことも、大切な時期なのかもしれません。

春の雨の下の桜と、別れについて。

美しく咲いた桜も、いつかは散ってしまいます。散らない桜など、ありません。そうだとするなら、なぜ毎年、桜は咲いてくれるのか。それはとても健気なように見えて、それでいてどこか切ないものでもあります。

春分の日、半分の日。喜びも、悲しみも、等しく。

今日は春分の日。昼と夜が、半分ずつになる日。12月の冬至で夜の時間が最も短くなり、そこから反転して徐々に徐々に昼の長さが伸びてきて、ちょうど半分になったのが今日。

めぐる春と、桜と愛と。

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」そう詠ったのは、在原業平だったでしょうか。

白き花、笑うように咲く。

春の空に、満面の笑みを浮かべる白木蓮。この時期だけのギフトを、楽しむことができた春の日でした。

訪れる春の麗らかさと、過ぎゆく季節の切なさと。

早いもので、もう時候は「啓蟄」を迎えました。地中で眠っていた生きものたちが目覚め、土の外に出てくるころ。小さな虫から、熊などの大きな生きものまで、冬眠から目を覚まして、春の空気に触れる時候です。

弥生のはじまり、悲しみと喜びのめぐる春。

3月、弥生。雨水も末候、「草木萠動(そうもくめばえいずる)」。その生命力にあふれ、さわやかなイメージとはうらはらに、どこか3月は人のこころを揺らすことがあります。

2月の雨はどこか静かで、やさしく。

この間、立春の記事を書いたと思ったら、もう季節は進んで「雨水」のようです。 降る雪が雨に変わり、雪解けがはじまる時候。 その降る雨のなかに、春の息吹を少しずつ感じるころでもあります。 張り詰めた雪や氷の季節から、暖かに流れる潤いの季節に、移り…

色に、春を想うこと。

色に、春を想う。流れる季節を愛でることは、私たち自身を愛することと、どこか似ているようです。