大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

四季五感

心地よい季節は、短くなれど。

9月も終わりというのに、30度以上というのは、やはり季節の移ろいというのが、ちょっと違うものになってきている気がします。なんというか、5月にはもう「夏」の暑さを感じたように覚えていますので、一年の半分くらいは「夏」の気温になってしまったのでし…

秋分を迎えても、まだ感じさせる夏の暑さに。

時候は「秋分」を迎えました。太陽が真東から昇り、真西に沈む日。

白露、残暑と呼ぶにはあまりにも暑く。

時候は、「白露」に入りました。その字のごとく、夜中に冷えた大気が、朝露となって草木に舞い降りるころ。その露が白く光った粒のように見えるのが、その名の由来とされます。

天地始粛、長月のはじまり。

早いもので、今日から9月に入りました。七十二候では「天地始粛(てんちはじめてさむし)」。暑さがようやく静まり、秋の気配を強く感じさせるころです。

暑さも止み、静かに深まっていく季節に、ゆっくりと内省の時間を。

気づけば、8月も下旬。時候では「処暑」、暑さむ止むとされるころ。厳しい暑さのピークを過ぎ、秋の虫の音が聞こえ始めるころです。

空の色が変わるとともに、夏の終わりの寂しさもまた、形を変えて。

風の感じや気温だけでなく、空の色もまた、変わったようです。見上げると、少し透明感を帯びたような色。それは、もう私の大好きな夏の色から、もう少しずつ遠ざかっているような色でした。

立秋、夏の終わりに夏らしさとは何かを考える日。

日中は「うだるような」という表現がぴったりのような、そんな暑さが続いています。しかし、暦の上では週の半ばに「立秋」を迎え、もう秋に入りました。

大暑の終わり、寂しさやせつなさもまた、生きる理由として。

「まさに盛夏」という天気が続きますね。私の住んでいる名古屋でも、今週は連日37度や38度といった最高気温になる日が続いておりました。

変わりゆく「夏」の風景と、変わらない情緒と。

時候は「大暑」、一年で最も暑い時期になりました。まさにその通りで、私の住んでいる名古屋でも、猛暑というか、酷暑の日々が続いております。少し曇っているだけで、「あぁ、今日はちょっとマシかな…」と感じるような、そんな暑さです。

あの蝉の声を探して歩く、大暑に向かうころ。

時候は「小暑」から「大暑」に移り変わるころ。一年で最も暑いとされる時期になりました。

小暑、変わりゆく「暑さ」がもたらすもの。

時候は「小暑」になりました。 梅雨明けの報が入りはじめるころであり、いよいよ本格的な暑さがやってくる時期です。 蝉の鳴き声も聞こえ始め、暑中見舞いを出す時期でもあります。 それにしても、今週は暑かったです。 私の住んでいる名古屋でも、36度以上…

雨に歩けば。 ~夏至、あるいは菖蒲華

天気予報をにらめっこする日々になりました。先週、ようやく梅雨入りしたと書いた気がしますが、いよいよ梅雨本番のようです。

夏至、夏枯草、追い駆けてもつかめないもの。

時候は、「夏至」を迎えました。夏に、至る日。春分、秋分、冬至とならんで、一年のなかの一つの区切りといえます。

変わらぬものなど何もないのなら、自分自身もまた、きっと変えていくことができる。

蒸し暑く、エアコンのお世話になる日が出てきました。少し歩いただけでも、じんわりと汗をかくような、そんな季候の日が増えてきました。

紫陽花の色に見惚れる、水無月のはじまり。

早いもので、もう6月に入りました。時候は、「小満」も終わりのころ。七十二候でも「麦秋至(むぎのときいたる)」。

天地万物に生命が満ちるころは、自分をいたわる時期でもあり。

この天地に生命が満ちるこの「小満」の時期だからこそ。自分をいたわる時期にしてみては、いかがでしょうか。

万物が満ちゆく季節に、不完全さを想うこと。

時候は、「立夏」から「小満」へ。夏、立てる時候から、天地にあらゆる生命が満ち始めるという、節気へ。ひと雨ごとに、気温は高くなり、草木の緑も力強さを増していく時候です。

立夏、夏とせつなさの訪れ。

暦の上では、夏。気温もぐんぐんと上り、生命が満ちていくのを感じられる時期です。しかし、夏は満ちることよりも、終わりゆくことへのセンチメンタルを、想起させるのです。

季節の移ろいを感じることは、自分とつながる手助けをしてくれるもの。

自分とつながること。自分がいま、何を感じているのか。季節の移ろいを感じることは、それに注目させてくれるようです。

春の不安定さを、淡い桜の色のなかに想うこと。

それもまた、春のしわざ。そんな風に考えて、自分の身体と心を、いたわってあげてください。ゆるくゆるく、やさしく、あまく。そう、あの桜の花の、淡い花の色のように。

春分の日の雨に、折り返しについて想うこと。

今日は、春分の日ですね。私の住んでいる名古屋では、冷たい雨の日でした。分厚い雲の向こう側の、お日さまを想像しながら。そんな、春分の日でした。

春立てる、霞の空に。

春立てる日。その空は、冬の凛とした色から、少しだけ透明感が落ちたように感じます。

冬至の陽光に、繰り返すことの偉大さを想うこと。

「冬至」、陰の極みから、陽へ転ずるころ。その特異点というか、奇跡というか、そんな「冬至」が毎年繰り返されること。それは、季節のめぐりが教えてくれる、最も偉大なことの一つかもしれないな、と感じるのです。

夕暮れどきの短さに、もの寂しさを想う、大雪のころ。

早いもので、師走も前半を終えようとしています。二十四節気では、「大雪」に入りました。いよいよ本格的な冬が訪れ、山々は雪に覆われるとされる時期です。

見えない虹に、想いを寄せる小雪のころ。

節気も、昨日から「小雪」。その字の通り、雪が降り始めるとされるころで、山々は白い帽子をかぶりはじめ、木々はその葉を落とすころでもあります。七十二侯では、「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」。

いつか、夏は戻ってくるのだとしても。

木枯らしが吹いても、あの熱量を想うんです。あの日に交わした言葉が、いまどこを探しても見つからないように。あの日に読んだ言葉と、いま読んだ言葉が、同じであっても異なるように。

穏やかな陽光のなかに、厳かな冬の気配も感じる霜降のころ。

静かで、それでいてどこか厳かな、秋の深まりを感じます。時候は、霜が降りるという「霜降」。北国や山地では、霜が見られるようになる時期ですから、肌寒いのも当たり前なのかもしれません。

その澄んだ色に、はかなさを感じさせるコスモスを眺めながら。

その澄んだ色と、どこかにはかなさを感じさせる、コスモスの花。その情感は、秋に感じるそれとよく似ている気がします。

やわらかな色が告げる、神無月の訪れ。

早いもので、10月になりました。神さまは出雲へお出かけするという、神無月。夏の名残なのか、日中はまだ暑いと感じる日もありますが、10月のはじまりはしっとりとした雨でした。

心地よき「秋分」の訪れを、よろこびとともに。

早いもので、もう今年も「秋分」を迎えました。心地よいこの季節がまたやってきたことを、存分に味わいたいものです。