2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧
4年に一度の日。故郷で咲く花を愛でた日。
「勇午」という漫画がある。学生時代の友人が読んでいて知った漫画だったのだが、これが面白くてよく読んだ。その中でも、好きな言葉がある。
私も含めた男性にとって、「比較競争」という罠は、なかなかにハマりやすい。他人に対してマウンティングや順位・ランク付けをしてしまうくらいは、割と分かりやすいのだが、厄介なことにそうでない形で現れることもある。
気付けば、断酒して481日を数えていたが、もうあとは数字が積み上がっていくだけで、それほど意味もないのなのだろう。淡々と、粛々と。そんな表現が、しっくりくる。
またか。どうせ、来ないんだろうな。そう、思ってしまった。息子から、また近所のヨウイチ(仮)くんと遊ぶ約束をしてきたことを聞いたときの、私の偽らざる心情だった。
どんな便利なものも、どんな貴重なものも、どんな優しさも、それが「当たり前」になってしまえば、何のことはない。「ありがとう」という感謝を忘れ、傲慢になるだけだ。そして、ある日突然、それが無くなった瞬間に、どれだけそれが「ありがたい」ものだっ…
その瞬間は、うたかたのように、浮かんでは消えていく。生とは、その瞬間の繰り返しでしかない。それは繰り返しであり、決して積み重ねではない。ただ、いまこの瞬間が、あるだけ。その繰り返し、繰り返し。
芽吹き、花咲くものと同じくらいの量で、その裏側にある、枯れゆき果てていくものに、心を惹かれるのだ。燃えゆく命の輝きとともにある、命の儚さ。春という季節は、根源的に不安と重苦しさを孕む。わたしの心は、どうしてもそちらに目が向く。
頼まれごとは、試されごと。おかげ、おかげと思いながら、試されていこう。
雨水を過ぎたが、今朝は久しぶりに車のフロントガラスが凍っていた。寒くなり、冷たくなり。その繰り返しで季節は巡っていく。
ほんとうにやりたいことを前にしたとき、人は怖れを抱く。遠い昔の、思春期の淡い恋心に似ているのかもしれない。
まだ時候は「立春」、ようやく雪解けが始まる「雨水」に向かうころ。それなのに、桜とは。季節のめぐりは、かくも早く流れていくもののようで。
THE BLUE HEARTSが好きだった。彼らの詩には、哲学を感じるから。彼らの歌の中でも、「情熱の薔薇」が好きだった。歌詞だけを見れば、パンクロックバンドの歌とは見えないような繊細さ。
いま、この目の前の世界。もし、それが間違っているように見えたり、あるいはこんなはずはないと思ったりしても、それはすべてテストの解答と同じなのだ。その間違いに気づくために、テストはある。そして、それは気づいたら、それで終わりなのだ。
英語の”will”という語は、未来と意志と二つの意味を宿す。それは、同じコインの裏表なのだろう。
黄色い帽子を被って登校していた時分。私は、なぜそんなにも寂しさを感じていたのだろう。
自分を愛する許可が出せたから、周りがそう言ってくれるのか、あるいは、その逆か。ニワトリが先か、タマゴが先かのような議論なのだろう。ときに、自分を愛するタイミングは、周りが教えてくれる。
「暦の上では」という枕詞をコンパスに、移ろう日々を感じること。五感で感じることを頼りに、春の手がかりを探すこと。それは、自分を生きることのささやかな一歩なのかもしれない。
見えるものと、見えないもの。見えないものを書いて形にすると、必然的に見えるものも形を変えていくのだろう。かくも、「書く」ことの力は偉大であるようだ。
この時期に咲く花たちは、数少ないなれど冬の世界を彩ってくれる。よく見かけるのは、山茶花と椿だろうか。
寝ても覚めても、考えていることがある。夢の中にも出てきそうなくらい、いつも頭を離れないもの。そんなものが、誰にでもあるのだろう。それは、大好きなこと、そして才能のあることなのだ。
循環するもの。顕在するものと、潜在するものと。黄金色の朝焼けと、すべての赤を集めたような夕焼けと。花と、種子と。制限されることと、自由であることと。
「マンションがつくりたい」週末の朝、息子がそう訴えてくる。どうやって作るのかわからないが、息子は作りたいのだ。そして、これまでの経験則上、その「つくりたい欲求」は、お茶を濁すことができない。どうしても、つくりたいのだ。
世界に何を与えるか、を考えることとは、世界から何を与えられたか、を探す旅なのだろう。
世界に何を与えるか、という問いは、私が何を与えられてきたか、という問いかけと同義なのかもしれない。その問いかけは、自分が世界から、あるいは天から愛されてきた証や事実を探す旅のようだ。
「春は、黄色から始まる」という言葉が好きで。その黄色を観ることができた春の始まり。さて、どんな春になるのだろうか。
新しい世界の始まりの前、節目の日。もし、これから何かが始まるのだとしたら。その境界線とは、何だろう。
久しぶりに食べた大将の味は、どこか懐かしく、その瞬間を思い出させてくれた。美味しかった。だから、私は人に会いに行くのかもしれない。
断酒仲間の岩橋隆盛さんが、断酒1周年を迎えたことを、ブログにアップされていた。岩橋さんとは私と同じ時期に断酒をスタートし、その姿に刺激を受けながら、互いに励まし励まされながら、今日まで来ている。