先日のモニター・カウンセリングで、初めて「音声のみ」のカウンセリングをさせていただきました。
私のカウンセリングメニューでは、「顔出し無し(音声のみ)も承ります」としているのですが、初めて「音声のみ」でお話を伺う機会を頂きました。
感染症禍を経験してビデオ通話・チャットが爆発的に普及したと思うのですが、考えてみれば、少し前までは離れた相手とコミュニケーションを取るには「電話」がメインだったように思います。
そこから考えると、ほんとうに便利な世の中になったものです。
Zoomなど便利なツールを開発し、世の中にリリースして頂いた方たちには、感謝しかありません。
視覚情報というのは、やはり大きいもので、お話ししているクライアント様の雰囲気、表情、視線など、実にたくさんの情報を画面越しに得ることができます。
それは、クライアント様からしても同じようなのだと思います。
顔を見ながら話をする安心感、というものは、やはり大きいのでしょう。
そんな「映像ありカウンセリング」ばかりを経験しておりましたので、先日の「音声のみ」のカウンセリングの時間は、新鮮なものでした。
初めての経験ですので、もちろん不安も怖れもありましたが、終わってみると、経験できてよかったと思います。
視覚情報がなくなるのですから、当然ながら難易度は上がるのですが、それでも、不思議とクライアント様のお話し頂く声のトーン、色、雰囲気、間合いなどから、それに代わる情報を得ようと必死になるのですね。
闇夜を歩いていると、聴こえてくる音や風の感触に、とても敏感になることと似ているのかもしれません。
そんなことを考えていると、かのモーリス・ラヴェルが作曲した、あまりにも有名なバレエ音楽、「ボレロ」が思い出されました。
終始同じテンポとリズム、そして2つの旋律という「制限」された中で、様々な楽器が徐々に徐々にクレッシェンドしながらバトンを渡すように演奏していく、この名曲。
クライマックスに向けての盛り上がりは圧巻で、曲の最初の静かな出だしからは想像もできない結末を迎えます。
まさに、制限されたテンポと旋律のなかで、無限の可能性を表現しているようにも聴こえます。
それは、気ままに歌うような自由さとは、また違った可能性を示してくれます。
芸術表現においてそうなのでしょうから、実際に私たちが生きる上でも同じなのかもしれません。
「これがなければ」と思い込んでいる制限が、もしかしたら大きな可能性を開く扉であるかのように。
もしかしたら、制限とは自分を閉じ込める檻ではなく、無限の可能性への扉なのかもしれません。
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そんなことを考えながら。
同時に、「カウンセリング」というものの本質、あるいは必要条件とは、何だろうとも考えるのです。
画像がなくても成立するのであれば、もしかしたら音声(言葉)なしでも成立するのでしょうか。
言葉もまた、大きな制限をかけている事象の一つだからです。
「悲しい」という言葉ですくい取れない感情が、どれほどあるか。
「愛しい」という言葉で伝えられない想いが、どれほどあるか。
ただ目を見て、頷く。
それだけで、成立するカウンセリングもあるのかもしれません。
ということで、最後は少しアヤシイ感じになってしまいましたが、音声のみのカウンセリングも承っております、というお話しでした。