欠点は直してはいけない、とはよく言われることです。
それは「欠点」ではなく「欠かすことのできない点」であり、また「凹んでいるところ」は「人を惹きつけるところ」だからです。
欠点について。
運動神経が悪いのが、嫌だった。
それなのに、居場所が欲しくて流されて部活してた。
くせっ毛が、コンプレックスだった。
思春期の頃、どんなに長時間鏡と向き合って、ドライヤーを当てて整髪料を変えても、気に入らなかった。
自分がないのが、やるせなかった。
周りに迎合して作り笑いをすれぼするほど、距離を感じるようになった。否定されるのが怖くて表現できない自分は、心の奥底に沈んでいった。
男性らしさが足りないときは思って悩んでいた。
男なのに小賢しく、周りのバイタリティ、決断力、継続力、筋肉、推進力…そんな魅力を見ては、憧れと同時に落ち込んでいた。
けれど、それはとてもとても不思議なことに、
マリアナ海溝に沈んだ自分をサルベージして、抑えていた感情を解放していくと、そんなことも少なくなっていた。
運動神経はよくなったわけでもないし、ストレートパーマをかけたわけでも、日々自分は揺れるし、小賢しさが消えたわけでも、組長のようなシックスパックになったわけでも、北方謙三の小説に出てくる奴らのように男らしくなれたわけでもない。
ただ、それらは全て私の「欠点」ではなくて私の「欠かせない点」だった。そしてそれらを否定していたじぶんもまた、気づけば愛おしい存在だった。
自己嫌悪が緩むにつれて、他人への判断、ジャッジ、否定も緩むようになった。
あなたはそうなんだね。
私はこうだよ。
きっとそれは、もとをたどればひとつだったものだよね。
2017.4.29
ずいぶんと前に書いた言葉を引っ張り出してきました。
だいぶ懐かしいですね。
この頃はぶくぶくと沈んだマリアナ海溝からなんとか浮上しつつあった頃のように覚えています。
自分という存在を自ら否定していると、それがベースになって自分を嫌う理由を探します。
口下手だから、
くせっ毛だから、
運動ができないから、
女々しいから、
押しが弱いから、
だから、嫌われる。
そんな思考回路になって、その欠点と思われる点を躍起になって直そうとしたり、無視しようとしたりします。ところが、そうした試みがうまくいことはまずありません。
自己否定というベースが根底に横たわっている以上、努力したりしてそれを多少緩和したり直してみても、次々と自分が嫌われる理由探しに目が向いてしまうのですね。
それをまた潰しにいこうとしたりすると、回し車の中のハムスターのように延々と走り続けることになります。昨日の「血」と「地」というベースから離れた生き方と同じですね。
欠点というのは「欠かすことのできない点」とも言い換えられるように、その人本来の特性なのです。正方形や真円の形に皆あこがれますが、人はそんなに完璧ではなく、それぞれ不完全でいびつな形をしています。そしてそのままでもう最高に素晴らしいんですよね。
自分を愛し、肯定するというベースから見れば、欠点もまた一つの愛すべき自分の特性です。それは周りに何かを与えさせることができる、素晴らしい点です。
そして、その凹んだ部分は周りの人を惹きつける点です。
古くは古事記のイザナギ・イザナミにもあるように、女性と男性でも同じですよね。凹んでいるから、入れたくなる、と・・・
と、最後は下世話な話になってしまいましたが、欠点は直すべきものではなくて、そのままを愛するものなのだと思うのです。そんな考え方があると聞くだけでも、少し欠点に対する考え方が緩むように思います。
お客さまが欠点だと思われている点はございますでしょうか。
もしかしたら、その点は周りの人に大きなギフトを与えられる素晴らしい点なのかもしれませんね。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。