大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

旅をする、人に会う、手を合わせる ~伊勢神宮・天の岩戸神社 再訪記

いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。

先日ご縁がありまして、1月に訪れた伊勢神宮と、天の岩戸神社を再訪しましたので、その訪問記を。

せっかくなので、前回とはちょっと違った味付けでお届けします。

 

昨年の晩夏に軽井沢を訪れたときに、別荘を管理する仕事をしている友人からこんな話を聞いた。

家は人が住んでいないとすぐに傷んでくる。

それは別荘でも同じで、人の訪れない閑散期に管理会社の方が見回りしている家と、そうでない家は傷み方が違う。

管理会社の見回りといっても、そんなに一日中風を通したりするわけではなく、鍵を開けて家の中に異常がないか、見回るだけでも全然違うのだ。

とても不思議な話なのだけれど。

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そのときに友人と、人のエネルギーみたいなものがあって、やっぱり家に入っただけでそのエネルギーが流れてるんじゃないか、とか、その家の主なのか神さまなのか分からないけれど、そんな方たちが喜ぶんじゃないか、とかそんな他愛もない話をしたように覚えている。

旅に出るということも、同じことなのかもしれない。

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伊勢神宮への参詣は、江戸時代には「お伊勢参り」として隆盛したそうだ。

庶民の移動が制限されていた時代のことだが、「お伊勢参り」は特別だったらしい。

仕事をほっぽらかしてお参りにいってもお咎めなしだった伝えられているし、「お伊勢参り」をするために村で共同にお金を貯め、順番に毎年その村からお参りに行く「伊勢講」なるものが組織されたとも伝えられる。

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江戸時代の風習や信仰についてそれほど詳しいわけではないのだが、思うに「お伊勢参り」とは恐らく日常を離れるリトリートだったのだろう。

旅をする。
人に会う。
話をする。
知らない景色に出会う。
手を合わせる。
エネルギーを交換する。
それを、持ち帰る。

その繰り返しが、螺旋運動になり大きなエネルギーを生んでいく。

江戸時代は「一生に一度」といわれた「お伊勢参り」だが、ありがたいことに今の時代は一度と言わず「行こう」と思い立ちさえすれば、何度でもお参りに行ける。

それだけでも、素晴らしく豊かな時代だ。

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「幸せは移動距離に比例する」とはよく聞く話ではある。

幸せをアイデアとか運気とかに入れ替えたバージョンもある。

やはり水は流れないと濁り、腐る、ということのなのだろうか。

五十鈴川の清らかな流れに、そんな旅情を覚える。

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お参りするときには、手と手を合わせる。

それは陰も陽も統合する、ということだ。

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正反対に見えるものも、実は同じものの違う側面なのかもしれない。

晴れと雨、男性と女性、日常とリトリート、創造と破壊、誕生と死、過去と未来・・・

手を合わせるとは、それを統合するという祈りでもある。

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あ、そういえば美味しいものの前でもやはり手を合わせる。

これも祈り、なのかな。

 

旅に出よう。

たくさん新しい土地の空気を吸って、エネルギーを交換してこよう。

帰ってきたときには、あら不思議、何かが変わっているはずだから。

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さあ、旅に出よう。

たくさん新しい土地の空気を吸って、エネルギーを交換してこよう。