丹後の美しき棚田。
そこで黄金色に揺れる稲の収穫に、心が満たされた翌日。
早朝から、車を走らせた。
一人旅は「せっかく来たのだから」の精神が発揮され、どうしてもハードワークになる。
右手に見る宮津の海は、どこか穏やかな表情をしていた。
三連休最終日、日中はたくさんの観光客で渋滞するのだろうか。
7時半に、元伊勢籠神社の駐車場に着いた。
丹後の国の、一宮。
前日にもご挨拶したが、今日は奥宮の眞名井神社にも参拝できると思うと、足取りも急ぎがちになる。
元伊勢籠神社の駐車場から、眞名井神社までは、徒歩で15分ほど。
朝方の宮津の海を右手に見ながら、参道を歩いていく。
今日も、よく晴れてくれそうだ。
眞名井神社の参道への入り口。
「吉佐宮(よさのみや)」の文字が見える。
遥か神代の昔、この「眞名井原」の地に豊受大神(とようけのおおかみ)をお祀りしていたと聞く。
その後、崇神天皇の代に倭国笠縫邑から天照大神がお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮と号して一緒に4年間お祀りしていたとのこと。
このあたり、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が、天照大神の安住の地を探して長い旅をされていたそうで、調べていると興味が尽きない。
なぜ、もとの大和国をお遷りになられたのか。
いまよりもはるかに移動にリスクがともなう中、不思議ではある。
参道の途中、彼岸花が咲いていた。
秋分の時候、それを忘れずに咲く彼岸花を眺めながら。
この地にともに祀られた天照大神と豊受大神は、社伝によると、天照大神が垂仁天皇の代に、いまの伊勢神宮内宮にお遷りになられた。
その400年ほど後、雄略天皇の代に豊受大神もまた伊勢の地(いまの外宮)にお遷りになられたそうだ。
この宮を「元伊勢」と呼ぶ由縁である。
いまの伊勢神宮に鎮座するまで、天照大神は倭姫命(やまとひめみこ)とともに、さまざまな地を御幸しており、それゆえに「元伊勢」の名はこの地に限らず、多くの地で見かける。
さて、両大神が伊勢にお遷りになられた後、本宮をいまの眞名井神社の地から、籠神社の地へお遷りして、社名を籠宮(このみや)と改めて、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りされてきたそうだ。
一歩、また一歩と眞名井神社への参道をゆく。
遥か神代の世に、なぜ神さまが、わざわざ自ら遠出をしたのか。
そして、なぜ、2番目にこの地を選んだのか。
はじめにお遷りになった笠縫邑は、大和国(奈良県桜井市あたり?)と聞く。
なぜ、そこからはるか遠く離れた、この丹後の地を選んだのだろう。
考えるほどに、不思議だ。
そうこう考えているうちに、眞名井神社にたどり着く。
「匏宮(よさのみや)」の文字が見える。
早朝ということもあり、静かで静謐な空気が流れていた。
「天の眞名井の水」。
清らかな水の音。
この水は、籠神社海部家三代目の天村雲命(あまのむらくものみこと)が、神々が使われる水を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水とされる。
この天の眞名井の水は、倭姫命によって伊勢外宮の井戸へと遷され、毎日天照大神と豊受大神にお供えされているそうだ。
実に、静謐な空気の流れる境内。
こころしずかに、手を合わせて。
本殿の柵の奥には、古代の祭祀場とされる「磐座(いわくら)」が。
たくさんの巨岩を眺めた、熊野の旅を思い出す。
磐座の主座には、豊受大神が祀られていた。
五穀豊穣、衣食住守護、諸業繁栄の神さま。
その名の通り、豊かさを象徴する神さま。
そして、磐座西座には、天照大神と伊射奈岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊射奈美大神(いざなみのおおかみ)が祀られている。
そういえば、かの天橋立は、地上にいた伊射奈岐大神が、天上の伊射奈美大神に会いにいくためにかけた梯子だったそうだ。
天と地。
人と神。
月と日。
男と女。
生と死。
ふたつの極が、和合する。
それは、もともとひとつだったもの。
この地は、そんな場所なのかもしれない。
眞名井神社での参拝を終え、籠神社へ戻る道すがら。
小さなオレンジ色が、秋を感じさせてくれた。
二日続けて、参拝することができた。
境内はまだ、朝の静かな空気。
地元の方と思わしき方が、歩きなれた感じで参拝していく。
鳥居をくぐって、一礼してお参りを。
手を合わせて、静かに目を閉じる。
遥か昔、この地に天照大神と豊受大神が鎮座されていた。
豊かさの国。豊かさの宮。
さて、私にとっての豊かさとは、なんだろう。
そんな問いかけをしながら、旅を進めることにした。