神倉神社のふもとの腰掛けで、しばらくぼんやりしていた。
有史以前、人の信仰は自然信仰、山岳信仰、磐座信仰からはじまったと聞くが、花の窟神社といい、この神倉神社といい、まさに御神体「そのもの」とも言うべき自然の磐座に触れると、手を合わせて祈りたくなるのが、分かるような気がする。
「楽器」というものが、狩りから帰還した人々を、身体や何かを叩いて歓迎したことから始まったという話を聞いたことがある。
「祈り」というもののはじまりは、どうなのだろう。
やはり、自然の絶景を目にしたとき、「こんな景色を見せて頂いて、ありがとうございます」と人々が手を合わせることから始まったのかもしれない。
巨大な磐座、途方もない高さの滝、すべてを映し出すような絶海…
人は、そのような絶景の中に、神を見たのだろうか。
外界が内面の投影だとするなら、その絶景に神を見る者の中にこそ、神が宿っているのだろう。
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神倉神社に別れを告げ、いよいよ熊野古道を北上していく。
目指すのは、熊野本宮大社。
新宮市の街並みは、すぐに生い茂る新緑の木々へと変わっていった。
1年前に訪れた際には、怖くて仕方がなかった168号線だったが、今日は怖くなかった。
ただ、音楽をかける気にはなれず、エンジン音とすれ違う車の風を切る音だけが響く。
熊野川を横目に見ながら、山道を走っていく。
伊勢自動車道から紀勢自動車道に入ると、森や木々の雰囲気が変わるのだが、この168号線に入ると、さらにその雰囲気は変わる。
まさに日本の原風景と呼べるような、深い森。
一年前も感じたのだが、幼い頃の記憶でこの168号線を父親の運転する車で通ったような記憶がするのだ。
姉に聞いても、確かなことは分からない。
けれど、川沿いの梯子を横にしたような構造のトンネルを通るたびに、懐かしさを覚える。
神倉神社から車を走らせること約40分、無事に熊野本宮大社に着くことができた。
連休中らしく、駐車場は満車で熊野川沿いのの河川敷にある駐車場に案内された。
参拝を終えて帰る際には、その臨時駐車場も満車で、車の長い行列ができていた。
午前3時に起きてよかった。
ハードワークの恩恵も、あるものだ。
古くは奈良・平安の昔から続いたと言われる、熊野詣。
あらゆる人を受け入れる聖地・熊野へ、皇族・貴族の参詣からはじまり、時代が下るにつれて武士や庶民も、さまざまな願いを込めて歩いた祈りの道。
やはり、熊野古道自体が神聖なもののように感じる。
熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。「熊野本宮大社」ホームページより
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
同上
京からはるばる熊野古道を通って歩いた参拝者が、この本宮の鳥居を見た際の感動は、言い表せないものだったのだろう。
これは、一年前に熊野古道の「中辺路」を実際に歩いた際の、「伏拝」の地点の写真。
写真中心の、はるか遠くにうっすらと白く見えるのが、かつて本宮があった場所。
長き旅路の果てに、ようやく本宮をその目で見た者が、皆感動して「伏して拝した」ことから、その地名がついたと聞いた。
この絶景を見ていると、さもありなん、と感じたのを覚えている。
鳥居の横には、「梁塵秘抄」からの歌が掲げられていた。
熊野へまいるには
紀路と伊勢路と どれ近しどれ通し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず梁塵秘抄
今回の私は伊勢路から熊野入りしたが、平安の昔には紀路とどちらが近いだろう、と議論になっていたらしい。
「広大慈悲の道」なので、どちらも遠くない、と詠われている。
鳥居を抜けて、参道の階段。
本宮の中でも、この参道の雰囲気が好きだ。
千年の昔の参詣者は、どんな気持ちで歩いたのだろう。
折しも二日前に改元が実施された節目の時。
境内に大きく新しい元号が掲げられていた。
こうしてみると、いい元号だと改めて感じる。
本殿には、参拝者の長い行列ができていてた。
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。「熊野本宮大社」ホームページより
主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)です。熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)「熊野にいらっしゃる神」と呼ばれていました。
また、造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。同上
時に紀元前、崇神天皇の時代に社殿が建てられたと聞くと、その二千年の時の流れを想う。
面白いのは、この奥深い山中なのに、「古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていた」というところだ。
近くに熊野川が流れるとはいえ、なぜこの山奥の本宮に造船術を伝えた神様が祀られてきたのか。
とても興味深い。
社務所に掲げられた今年の一字。
今年は「ときをきざむ」年になるのだろうか。
境内のポストにいらっしゃる八咫烏は、なんと緑色になっていた。
今年が世界遺産登録十五周年にあたるため、熊野の山々の緑の深さを表現しているそうだ。
また、この「八咫ポスト」は設置されて十年になるそうだが、これまでどれだけたくさんの手紙を運んできたのだろう。
その八咫烏が表現する、熊野川沿いの緑。
どうして、同じ山なのにこんなにも緑色のトーンが違うのだろう。
日当たりだけでは説明がつかないように感じる、日本の原初風景。
本殿を離れ、国道を挟んだところにある「大斎原(おおゆのはら)」へ。
その周辺の田んぼは、ちょうど田植えの時期だった。
かつてここに本宮大社が建っていたが、明治22年の大水害により現在の本殿の場所に移ったと伝えられる。
日本一の大きさと言われる、大鳥居。
参拝客と比較しても、その大きさに圧倒される。
鳥居の中は撮影禁止なので写真はないが、不思議と心落ち着く場所だった。
境内のベンチに腰掛けて、ただ目を閉じてみた。
これは、1年前に熊野古道「中辺路」の見晴らし台から大斎原を眺めた際の絶景。
今日と同じように、ベンチに腰掛けて目を閉じる時間があった。
あの時、見晴らし台から見ていたのは、大斎原で目を閉じる私だったのだろうか。
などと妄想しながら、至福の時間を過ごすことができた。
大斎原から望む、熊野連山。
なぜ、あんな緑のグラデーションになるのか、ほんとうに不思議だ。
朝から何も食べていなかったので、空腹を覚えた私は、駐車場近くの喫茶店でコーヒーとトーストを流し込んで、熊野路を急ぐことにした。
太陽は、ちょうど中天に差し掛かったあたりだった。