夏の名残を惜しむように、息子と娘とプールにやってきた。
今日は少し遠出をして、市外の市民プールに。
市民プールにしては大きな施設で、流れるプールもあるらしい。
コロナ禍の影響で、波ができるプールやサウナは利用中止になっているが、それでも自宅から一番近い市民プールよりは格段に大きい。
やはりというか、週末の渋滞に巻き込まれながらも、何とかたどり着く。
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流水プールというのは、不思議なものだ。
ぷかぷかと浮かんでいるだけで、なんだか泳いでいるような気になる。
息子の浮き輪につかまって、流れるままに運ばれてみる。
最初は顔を出していたが、肩が凝ってきたので、顔をつけて浮かんでみる。
遠い遠い昔、水泳を習い始めたころ、一番最初にやったポーズだ。
蹴伸び。
けのび。
顎を引いて脱力していれば、身体は沈むことはない。
顔を上げて前を見ようとすると、身体は縦になって足がついてしまう。
不思議なものだ。
脱力しながら、流れのままに運ばれていく。
それがどちらに向かっているかも、よく分からないままに。
気づけば、一周したようでもとの景色に戻ってきた。
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脱力。流れのままに。
こうして滔々と流れているのに、力を入れて沈んでしまったり。
あるいは、逆走しようとして、進まないことを嘆いてみたり。
力をぬいて「けのび」でもしていれば、勝手に流れていくのに。
ときに、ずいぶんと無駄なことをしているのかもしれない。
ぐいぐいと、息子は前へ前へと進んでいく。
それに任せて、私は「けのび」をしたまま流れていく。
身体の感覚というのは、偉大なもので。
進まないとき、沈んでしまったときは、この感覚を思い出そう。
何もしなくても、流れるときは流れていくものだ。
その場所が、流水プールだと信じてみること。
それを、委ねると言ったり、則天去私と言ったり、プロセスを信頼すると言ったり、あるいはサレンダーなどと呼んだりするのだろう。
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それでも、やはり、というか。
都合3時間以上も息子たちに付き合った帰り道、身体のいろんな筋肉に疲れを感じる。
肩も、ずいぶんと凝っているようだ。
力を抜いているつもりでも、まだまだ気づいていないだけで、力が入っているのだろう。
もっと、力を抜いていい。
もっと、力を抜けるんだ。
流れのままに。
任せて、委ねて、預けて、そのままに。
プールから出れば、ずいぶんと澄んだ色の空。おおきな生き物のような。