大嵜直人のブログ

たいせつな何かをなくした心に、ともしびを。

祈り、について。

祈りについて、考えている。

 

何かを前にしたとき、人は手を合わせ、祈る。

その何かとは、自分ではコントロールできない、何かだ。

 

誰にも見通すことのできない、未来を前にしたとき。

自分でもわけのわからぬ、感情の揺れに慄いたとき。

まるで神は存在しないかのような、凄惨な現実を目にしたとき。

あるいは、遠く離れた誰かを慈しむとき。

あるいは、日常と最も離れた死を想うとき。

人は手を合わせ、祈りを捧げる。

 

その祈りとは、当然のことながら「こうなりますように」といった個人的な願望から始まる。

 

よりよき未来、魂の平穏、かけがえなき日常、その人への慕情、あるいは死者への哀悼。

あわせた両の手に、それらへの切なる願いを乗せて、人は祈る。

 

そういった意味では、祈るという行為は、自分が無力であることを受け入れることから始まる。

その上で、自己よりも大きな存在に委ね、何かを願う行為であるとも言える。

 

それは、自らの力が矮小だと貶める行為とは、対極にある。

自らが成し得ること、自らではどうにもならないこと。

それを切り分けた上で、自らではどうにもならないことを任せ、委ねる。

その切り分けた境界線の上に、祈りはあるようだ。

 

祈りとは、「自分が」と肩肘を張るような自己本位と、「誰かが」という他人任せの、中庸にある、きわめて主体的な行為である。

 

それは、そうなのだが。

果たして、それだけなのだろうか。

 

 

人は、いつから「祈る」ことをはじめたのだろう。

 

音楽の始まりは、狩猟時代に狩りから帰ってきた仲間に対して、手を叩いたり、何かを叩いたりして喜びを表した音だったという話を聞いたことがある。

 

同じ狩猟時代に、狩りに出た仲間の無事を願うこと、それが祈りの始まりだったのだろうか。

大きな獲物をしとめることができるように、という祈りだったのだろうか。

やがて定住し農業をはじめ、豊作を祈るようになり、集団生活を営む中で自らの帰属する集団の繁栄を祈ったのだろうか。

やがて、身分や貧富の差が生まれるにつけ、現世利益を祈るようになったのだろうか。

 

おそらくは、そうしたこともあっただろう。

 

けれど、それだけだったのだろうか、と不思議に思うことがある。

 

人が祈るのは、何がしかの自分の望みを叶えるため、自分の望む世界を創出してもらうために、という理由からだけでは、今日まで祈りを続けてこれないような気がする。

自分の力でどうにもならないことに対して、祈る。

 

それが、望んだ未来になることもあれば、望まない未来になることもあるだろう。

その不条理に耐えられるほど、人は強くないようにも思う。

 

 

願いは叶う。

祈りは通じる。

 

そうしたことは、事実かもしれない。

いや、事実なのだろうと思う。

 

そうであったとしても。

そうでなかったとしても。

 

人は、祈りを続けるように思う。

 

そうした理(ことわり)や、損得から、遠いところにこそ、

祈りという存在がある。

それはもしかしたら、いまの私たちが理解できないだけで、理にかなった行為なのかもしれないが。

 

時に訪れる、祈るしかないような時間に、それを強く思うのだ。 

 

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ただ手をあわせたくなる時間が、ある。