大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

すべての問題を癒す親密感やつながりとは、突き詰めていくと「あなたはわたし、わたしはあなた」という感覚。

すべての問題をつくるのは、自分が何かとつながっていない、という分離感は、多くの問題を生みます。

それを癒すのは親密感とつながりですが、それは突き詰めていくと「あなたはわたし、わたしはあなた」という感覚になります。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.強い抵抗を感じて相手に近づけないときは、天の助けを求めましょう

相手に近づいていくことがすべての問題の答えだ、とわかってはいても、あまりにも痛みが激しかったり、ぼろぼろになっていたり、強い抵抗感があったりして、もう一歩たりとも踏みだせないと感じることがあります。

 

そんなときこそ、天の助けを求めるときです。

相手にもう一歩近づけるように、そして新たな強さをもたらしてくれるように求めましょう。

その強さは、何度でもあなたをその人のハートの中心まで連れていってくれます。

 

ときには抵抗や痛みがあまりにも強くて、一歩踏みだすたびに天の助けを求めなければならないこともあるでしょう。

それはあなたの慢性的なパターンや、深い痛みの層を癒しているということなのです。

一歩ごとに、すすんで助けを求めましょう。

恩恵があなたを前に進ませ、元気づけてくれます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.124

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2.分離と親密感について

今日のテーマは、「親密感」でしょうか。

すべての問題を癒す、といわれる「親密感」ですが、自分一人だけではどうにもならない感覚のようです。

分離がすべての問題を生み、親密感がすべてを癒す

他人との間にできた、へだたり、分離、あるいは断絶。

それらが、私たちが頭を悩ませる、すべての問題を生むようです。

パートナーシップにせよ、家族の関係にせよ、職場の人間関係にせよ、つながりが感じられなくなったとき、人は強い痛みを覚えます

誰も、私の気持ちをわかってくれない。

私は、いつも孤独だ。

もう傷つきたくないから、誰ともつながらなくていい。

…など、そうした分離、断絶、へだたりは、人の心を蝕んでいきます。

もちろん、だからといってそれが悪い、というわけではありません。

ただただ、そう思わざるをえない、何がしかのできごとが、あったのですから。

そうした痛みの裏には、つながりたいのにつながれないという、切ない心の叫びがあります。

だからこそ、親密感はすべてを癒します。

誰かとつながっていると感じられるとき、私たちは安らぎの中にいます。

そこには、問題が入る隙間がありません。

問題をつくりのが人とのかかわりであるならば、問題を癒すのもまた、人とのつながりであるようです。

近づけないのは、相手の痛みにつながってしまうから

親密感が、つながりが、すべてを癒す。

なんとなく感覚的には、誰もがそれをわかっているように感じます。

けれども、実際には、孤独の痛みを超えて、誰かとつながることは、非常に怖いものです。

それは、パートナーシップや、家族といった、親しい関係になればなるほど、そうなのでしょう。

相手に近づいていくことがすべての問題の答えだ、とわかってはいても、あまりにも痛みが激しかったり、ぼろぼろになっていたり、強い抵抗感があったりして、もう一歩たりとも踏みだせないと感じることがあります。

引用文の最初の一文が、まさにそんな心理を描写していますよね。

近づくことが答えだ、と分かってはいても。

あまりにも自分が傷ついてたりすると、近づこうとする一歩目が、踏み出せない。動けない。

親しい誰かとの間で、そんな状況を経験された方も、いらっしゃるのではないでしょうか。

相手に近づくことに、強い痛みや、抵抗感を感じるとき。

そんなときは、その相手の抱えている痛みに、自分自身が反応してしまっていることがあります。

それは、親しい相手であればあるほど、そうなのでしょう。

相手に痛みと、自分の痛みや傷がつながってしまう、共鳴してしまう

そんなときに、私たちは相手に近づけなくなってしまうのかもしれません。

それは、まだ癒されていない自分の心の痛みや傷であり、だからこそ、相手が見せてくれている、ともいえるのですが。

3.あなたはわたし、わたしはあなた

祈る、という積極的な行い

痛みや抵抗を感じて、相手に近づけないとき。

むしろ、自分自身の痛みが強すぎて、動けないとき。

そんなときは、自分自身でどうにかしようとせず、助けを求めましょう、というのが今日のテーマです。

その状況では、もうある程度のところまで、自分のできることはし尽くしたのではないでしょうか。

もうできることはやり尽くして、これ以上はできない、となったとき。

人は、何かに助けを求めて、祈るのだと思います。

私も、どうしようもなくなったとき、祈りました。

そういったときに出てくる願いは、「この辛い現実を変えてください、どうにかしてください」というものでは、ありませんでした。

これまで、どれだけ願い、祈っても、叶えられることはありませんでしたから。

痛みの底で出てくる願い。

それは、
「どうか、私の心に平穏を与えてください」
という祈りでした。

どうしようもなくなったとき、あまりにも強い痛みで動けないとき。

人は、祈るのかもしれません。

祈りがつなぐもの

それはとても不思議なのですが、そうした祈りは、聞き届けられたように思います。

どこかそれは、自分のできること、あるいはコントロールといったものを、手放した先にあるのかもしれません。

先に述べた通り、人が抱える問題とは、分離と断絶、へだたりが生みます。

そして、それを癒すのはつながりであり、親密感です。

そうであるならば、祈りというのは、何がしかのつながりをつくるものなのかもしれません。

誰かと、何かと、世界と、分離しているから、痛みを感じる。

時に私たちは、それを自分一人の力で、何とかしようとします。

けれども、そうすればするほどに、人は周りから分離し、孤独になります。

祈りとは、そうした自分一人でしようとするエゴを捨て、何かとつながろうとする行為といえます。

つながりとは、もちろん親しい人とのつながりでもありますが、つきつめていくとそれは「世界と自分とがつながっている、同一である感覚」といえます。

朝、目が覚めること。

季節の移ろいの中で、息を吸い、吐くこと。

紅茶の苦みと香りを、味わうこと。

風の匂いとささやきを、感じること。

そうしたことの先に、つながりはあるように思うのです。

そのつながり、親密感とは、「あなたはわたし、わたしはあなた」という感覚ともいえます。

目の前にいる人の瞳のなかに、自分自身を見ること。

それがつながりであり、親密感でもあります。

そんなつながりや親密感を、お伝えしていきたいなと、いつも思っております。

 

今日は、つながりと親密感について、少し感覚的なお話をさせていただきました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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