大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「霊的依存」と「祈り」について

私たちの成長は、「依存」から「自立」、そして「相互依存」へと進みます。

しかし、さらにその先に「霊的依存」とよばれる段階があります。

「祈り」にも似た、そうした「依存」のかたちについて、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.宇宙への全面的な依存こそ、究極の目標

成長の段階は「依存」から「自立」へ、そして「相互依存」へと進みます。

しかしもっとも高い段階は、神への「徹底的な依存」です。

これは、いいことが自分のもとにやってくる、そして自分を開いて受けとることが多くの祝福をもたらす道だ、ということを知っている意識の状態です。

すると空をとぶ鳥や、野に咲くユリのように、あなたは援助され、愛され、大切にされるのです。

 

こうした「徹底的な依存」という考えは、私たちを怖れおののかせます。

これまで自分がつねにコントロールして、自立することを学んできました。

そしていま、ここに到達したのです。

私たちはコントロールを捨てて信頼し、自分自身を「神の手」にゆだねるという、より大きなレッスンを学ぶことが求められています。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.117

f:id:kappou_oosaki:20220103095718j:plain

2.「霊的依存」について

今日のテーマは、「霊的依存」です。

「サレンダー」と迷いましたが、なんとなく「霊的依存」の方にフォーカスしてみたいと思います。

何も持たずに、裸で生まれてきたのだから

この世に生れ落ちたとき、私たちは完全なる「依存」からはじまります。

何も持たず、裸で生まれてくるのですから。

誰かの助けがなければ、生きられなかったはずです。

そこから、私たちは自分で為すことをおぼえていきました。

「自立」と呼ばれる、自分のことはなんでも自分でする、という時代です。

自分の得意なことも、不得手なことも、やりたいことも、気の乗らないことも。

すべて、自分の手で、一人で成し遂げようとします。

しかし、それは終わりのない道です。

どれだけあなたが力を尽くそうとも、かたかたと灰色のやるべきことだけがふってきる世界でもあります。

そこで、私たちはできることはする、頼ることは頼る、という「相互依存」に進みます。

ひとりで生きる、から、だれかと生きる

私たちの心は、そのような成長の旅をめぐります。

あちらには、何も持っていけないのだから

しかし、今日の引用文では、「相互依存」の先があるといいます。

神への「徹底的な依存」

これを「霊的依存」と呼ぶこともあります。

ただ、委ねる。
ただ、信じる。
ただ、受け入れる。
ただ、コントロールを手放す。

何があっても、何が起こっても。

神の恩寵を、信じる。

それは、とても恐ろしく感じるものです。

いままで、コントロールしてきたから、自分で何とかしようとしてきたから、なんとかやってきたのだから。

それを手放す?コントロールしない?委ねる?

それは、目を瞑って、ボールを投げるように感じるかもしれません。

いや、投げすらもしない。

目を閉じ、ただ、静かに座っている。

何が起ころうとも、それを受け入れる、という態度。

それを神と呼ぼうと、何と呼んでもいいのですが。

ただただ、大いなるものに、この身を委ねる。

そこに、至りなさい、と引用文は言います。

3.それは、「祈り」のように

花が咲く、鳥が歌う

これは、いいことが自分のもとにやってくる、そして自分を開いて受けとることが多くの祝福をもたらす道だ、ということを知っている意識の状態です。

すると空をとぶ鳥や、野に咲くユリのように、あなたは援助され、愛され、大切にされるのです。

花が咲くこと、鳥が飛ぶこと。

その姿に目を凝らすと、いろんなことが見えてきます。

一つとして、同じ花も鳥もなく。

ただただ、一つ一つの個が、まるで祝福されているかのような

そんなふうに、感じたことは、ありませんでしょうか。

季節を、めぐらせるもの。

この心を、ふるわせるもの。

夕暮れを、染めるもの。

あの波の音のなかに、聞こえるもの。

この千切れんばかりの胸のうちに、宿るもの。

すべては、ただただそのままに、流れていくものです。

別れも、曙光も、三日月も、愛おしさも、何もかもが。

祝福の中にあるのならば、あなたの生もまた、きっとその円環のなかにあるのでしょう。

「祈り」

生まれたときの私たちがそうであったように、私たちの最後もまた、完全な「依存」です。

神さまへの「徹底的な依存」、あるいは「霊的依存」。

それは、何もしないでいる、というわけではありません。

自分の無力さを知ったとき。

夢が、きれぎれに破れたとき。

大きな痛みのなかに、いるとき。

人は、祈ります。

祈ること「くらい」しか、できないからでしょうか。

いえ、違います。

私たちは、本能的に祈りの「偉大さ」を知っているからです。

 

心がばらばらに千切れ、
息をすることが難しく、
過去が思い出すのも辛く、
未来があまりに怖ろしくて考えられないとき。

私は、この目の前の現実を変えようと願うことを、あきらめました。

どれだけ祈っても、その願いは叶えられなかったからです。

代わりに、こう祈ったことを、覚えています。

「どうか、わたしの心に、平安を与えてください」

そう願っているとき。

その瞬間は、その願いは叶っていたことに、私は気づきました。

いま、この祈っている瞬間。

その瞬間は、大丈夫だったのです。

 

「祈り」とは、ただ何かを願うことだけではありません。

息を吸い、吐くこと。

こうして、文章を書くこと。

カウンセリングをすること。

のり弁当を、味わうこと。

すべての行為の中に、「祈り」は宿ります。

 

神への「徹底的な依存」、「霊的依存」とは、何もしないでいい、ということではありません。

人事を尽くして、天命を待つ。

そんな言葉があります。

人事とは、「祈り」、と言い換えることができるように私は思います。

そして「祈り」とは、手を合わせて願うことだけではなく。

生きること、食べること、書くこと、聴くこと、愛すること…あなたのすべての行いの中に、宿るのです。

その「祈り」のなかで芽生えることを受け入れ、祝福し、愛でていくこと。

それがどんなものであれ、すべてのことを。

その覚悟。

「霊的依存」とは、そんな覚悟とも言い換えられるのかもしれません。

 

今日は自分が何かをするたびに、「自分でする」のではなく、
あなたのために、あなたを通してそれが「なされる」ことを選択しましょう。

同上 p.117

 

〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。

※ただいま満席となっております。
※4月25日(月)より次回5月度の募集を開始いたします。

〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。