何がしかの痛みや問題、あるいは罪悪感というのは、ネガティブに見えます。
けれども、それらの裏側にはその人のかけがえのない才能が隠れているものです。
1.痛みには才能が宿る
先日の記事では、痛みには才能が宿る、というテーマでお伝えしました。
ネガティブな感情の扱い方、とらえ方というお話からのつながりでした。
悲しい、辛い、寂しい、怒りといった、ネガティブな感情を感じるとき、そこには何がしかの心の痛みがあります。
そして、何に痛みを感じるかというのは、誰でも同じではありません。
つながりが切れることに痛みを感じる人もいれば、豊かさが感じられないことに痛みを感じる人、自分が信頼されないことに痛みを感じる人もいます。
ある意味で、痛みを感じる場面や状況というのは、その人にとってとても大切なことと密接に結びついているといえます。
たとえば、私がプラモデルづくりにひとかたならぬ情熱をかけていたとしたら。
とても精巧につくられたプラモデルが壊される場面を見たら、とても心が痛むのでしょう。
けれども、そうでない人にとっては、その場面を見ても、「ふーん」としか感じないかもしれません。
大切にしていることがあるからこそ、私たちは痛みを感じます。
そして、何を大切にするのかは、私たちの才能を指し示してくれるものです。
当たり前じゃないんですよね。
何かを大切に感じることって。
先日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.「問題」もまた、同じ
この痛みは、「問題」と同じなんですよね。
「問題」は、私たちの才能を指し示してくれるもの。
これはもう、何度も私のブログではお伝えしていることなので、「それ、前も聞いた」と思われるかもしれません笑
カウンセリングのなかで、多くの「問題」についてのお話を伺います。
人間関係のこと、パートナーシップのこと、親との関係のこと、仕事のこと、あるいは、お金のこと…
そうした「問題」もまた、先ほどの痛みと同じです。
同じ状況を経験しても、あまり「問題」とは感じない人もいれば、すごく思い悩んでしまう人がいる。
それは、どちらがいいとか、悪いとかいう話ではありません。
ただ、そこに「問題」を感じるのだとしたら。
その裏側には、その人が大切にしたいものがあります。
大切なことでしか、人は自分の時間や労力を使わないものです。
その人の頭を思い悩ませるもの。
そこには、それだけ大切にしたいという想いがあるからです。
3.罪悪感もまた、同じ
さて、罪悪感もまた、同じです。
直接的にせよ、間接的にせよ、多くの「問題」の原因となるのが罪悪感です。
カウンセリングでも、罪悪感を扱うことはとても多かったりします。
「親の期待に応えられなくて、申し訳ない感じがする」
「別れた彼に、してあげられなかったことばかりが浮かぶ」
「クライアント様に貢献できてない」
…などなど、「The・罪悪感」といったものから、変奏曲的なものまで、実にさまざまです。
けれども、なぜ人が罪悪感を持つかといえば、ひとえにその相手への愛があるからなんですよね。
罪悪感の深さは、愛の大きさに比例すると言われたりもしますが、まさにそうなんですよね。
それは、パートナーや大切な友人といった対象になることもあれば、人類愛みたいな現れ方をすることもあります。
後者のたとえでいうと、駅で見知らぬ人が転んでカバンの中身をバラまいてしまって、あわわわ…してる場面を見たとして。
けれど、自分は急いでて、手助けをできずにスルーしてしまったとしたら、そこでやっぱり罪悪感は感じるんですよね。
じゃあ、その見知らぬ人が「自分にとっての大切な人」なのか?といえば、そうではなくて、「困っている人を助けたい」という想いの裏返しが、罪悪感として出てくるものです。
特定の人に対してというよりは、広い意味での人類愛と表現できるでしょうか。
罪悪感の裏側には、愛があり、それはその人の才能を確かに指し示すものです。
痛みにしても、問題にしても、罪悪感にしても。
そうしたものの裏側にある、光の部分に目を向けていきたいものです。
それは、その人の才能と同義なのでしょうから。
今日は、痛みと問題、そして罪悪感は、その裏側に才能を隠すもの、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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