誰もが自己否定をしたいわけではないですが、そうせざるを得なかったできごとがあったりするものです。
そのルーツは、あなたが人生をかけて大切にしたかったものを教えてくれることがあります。
1.自己否定が癒しをせき止める
昨日の記事では、「癒し」の力をせき止めるもの、というテーマでお伝えしました。
「癒し」を止めるもの、自己否定と自己不信。 - 大嵜直人のブログ
私たちには、自分を癒していく力が備わっています。
それは、身体的なものでもありますし、心の内面においてもまた、そうなのでしょう。
怪我をしても、傷ついたとしても、私たちには自分で自分自身を癒していく力があります。
何もしなくても、時間を味方につけて、私たちは自分を癒していくことができます。
しかし、いくらそうした自己治癒力があったとしても、毎晩飲み歩いたり、睡眠を削ったりと身体に無理をさせていたら、治るものも治りません。
私たちの心にとって、そうした自分を癒す力を阻害する要因となるのが、「自己否定」と「自己不信」である、というのが昨日の記事のテーマでした。
それは、癒しという川の流れをせき止めてしまう、ダムのようなものといえます。
自分で自分を否定しているとき、私たちは自分自身を罰し、傷つけようとします。
「こんな私はどうしようもない」とか、「どうして他の人に比べて、私は劣っているんだろう」とか、自分の言葉を刃にして、それを自分に向けているようなものです。
自分で自分を信じられないとき、私たちは自分の力を抑え込みます。
「私にはそんな力なんてない」とか、「私にできることなんて何もない」とか、自分の持っている可能性を、自分で全力で蓋をしているようなものです。
そんなダムをつくっていたら、私たちの持っている癒しの力を発揮するのは、難しいのでしょう。
自分を否定すること、自分自身の価値を信じないこと。
それらが、私たちの癒しの力をせき止めてしまうようです。
2.自己否定をする赤ちゃんはいない
さて、こうした自己否定や自己不信について、今日はもう少し考えてみます。
某風邪薬のCMのキャッチコピーを借りるなら、
「あなたの自己否定は、どこから?」
となるかもしれません笑
自己否定、すなわち、自分が自分を否定すること。
いまもそれに苦しんでいる方が、今日の記事をお読みの方の中にも、いらっしゃるかもしれません。
もしかしたらそれは、癖のようになってしまうほど、長いこと自分を否定してきたのかもしれません。
けれども、それは生まれてからずっと、というわけではないとは思います。
だって、想像できますかね、「自分のことを否定する赤ちゃん」なんて。
「あたしって、ほんとひどいやつなんだよね、バブバブ」
なんて言っている赤ちゃんなんて、いないと思います。
あ、そもそも赤ちゃんはしゃべれないですかね笑
それはともかくとして、私たちが自分のことを否定するとき、それはどこかでそうするきっかけがあったのではないでしょうか。
幼いころだったのかもしれません。
あるいは、思春期のころだったのかもしれません。
それは、何かインパクトの大きい一つのできごとだったのかもしれませんし、あるいは、そうしたことが当たり前になってしまうようなことが繰り返されたのかもしれません。
それは、人によって千差万別に異なるのでしょうけれども、何がしかのきっかけがあって、自分を否定するようになったのではないでしょうか。
だって、自分のことを否定するなんて、誰もすすんでしたくもないはずですから。
自分に対して、一番影響力があるのは、自分自身の言葉だといわれます。
そんな自分自身の言葉を、「自分を否定するために使いたい!」と思う人なんて、いないのでしょう。
だとするなら、何がしかの自分を否定するようになったできごとや経験が、あったのではないかと思います。
「あなたの自己否定は、どこから?」
少し、時間をとって考えてみる価値のある問いだと思います。
3.それは、誰かを守るためだったのかもしれない
誰もが、自分を否定したいはずもない。
けれども、いま自分を否定している部分があるとするなら、それは何がしかのできごとや経験があったかた、そうしている。
じゃあ、そうしたできごとや経験を、どのように見ていくべきかについて、考えてみたいと思います。
自分を否定するようになるできごと、あるいは経験。
いろんな場面が、考えられると思います。
「身近な人から、自分を否定された」
「他人と比べて、何かが劣っていた」
「大切な人が、いつも辛そうにしていた」
「大きな失敗をして、誰かを悲しませてしまった」
…いろんなできごとが、ありますよね。
もし、思い当たるできごとがあるのであれば、そのときの自分を守ってあげることが、まず第一に大切なことです。
「つらかったよね」「大丈夫だよ」「がんばったよね」「あなたは何も悪くないよ」…そうした、自分をいたわる言葉を、かけてあげることができると、少し心が軽くなると思います。
もちろん、自分一人でしてもいいのですが、信頼できる方と話したり、カウンセリングを使ってみることも、とても有効です。
世界で一番大切なはずの、自分自身。
その自分を否定しなければならないほどの、できごとがあったのだとしたら、その自分をやさしく受けれいることが、まずは大切なのでしょう。
…と、ここまでは王道ともいえる内容ですが、今日の記事の核心は、それではありません。
こいつの文章は相変わらず長いな…と思われるかもしれません。
めんどくさい男で、すいません笑
でも、そうした自己受容がベースにないと、あまり意味がないので、長々となってしまいました。
考えてみたいのは、そうした自己否定をせざるを得なかったできごとの裏に、どんな想いがあったのだろうか?という視点です。
たとえば、先に挙げたなかの、「身近な人から、自分を否定された」という例を考えてみます。
自分にとって身近な人から、自分自身を否定されるような言葉を投げかけられるのは、辛いことです。
それが、親であったり、家族であったりしたら、なおさらでしょう。
もしかしたら、そこから自分を否定する、ということが当たり前になってしまったのかもしれません。
それもまた、悲しいことではあります。
しかし、そうしたできごとを、正誤善悪の判断は別として考えるならば、
「自分を否定することで、その相手を受け入れようとした」と見ることは、できませんでしょうか。
自分を否定することで、その人を受け入れようとした。
守ろうとした。
愛そうとした。
もし、そうだとするなら。
自分を否定するルーツを考えることは、自分自身が人生をかけて大切にしたかったもののを、教えてくれるのかもしれません。
繰り返しにはなりますが、そのできごとがあったときの自分を、十分にいたわってあげることは、大前提として必要になります。
その前提の上で、自己否定を癒していくなかで、少し考えてみたい視点です。
今日は、自己否定のルーツには、あなたが守りたかったものがあるのかもしれない、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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