「自分だけが助かってしまった」という罪悪感があります。
そうした罪悪感がもたらす感情と、その向き合い方について考えてみます。
1.「自分だけが助かってしまった」という罪悪感
「罪悪感」とその種類
先日から「罪悪感」についてのテーマが続いておりましたが、今日も少しその続きになります。
「罪悪感」とは、言うまでもなく「自分は悪い人間だから、罰せられるべきだ」という感情であり、それゆえに自分を幸せから遠ざける選択や行動を引き起こします。
今日考えてみたいのは、そうした「罪悪感」のなかで、「自分だけが助かってしまった」というものです。
以前にも少し書きましたが、「罪悪感」には大きく分けて7つの種類があります。
- 誰かを傷つけてしまった、壊してしまった
- 誰かを助けられなかった、役に立てなかった
- なにもしていない、見捨ててしまった
- 自分が(周りの人よりも)恵まれている
- 自分は汚れている、毒である
- 親や社会、宗教、あるいは時代背景から受け継いだ
- その他
「自分だけが助かってしまった」という罪悪感は、この分類でいくと2と3と4にかかわってくるでしょうか。
結構、広範囲ですよね。
だからというわけではないですが、この「自分だけが助かってしまった」という罪悪感は、非常に根深いものがあります。
なので、この種の「罪悪感」がなにを示しているのか、そしてその向き合い方について
今日は考えてみたいと思います。
「重さ」を持った祖父のまなざし
「自分だけが助かってしまった」という罪悪感。
たとえばそれは、「試験に自分だけが受かった」「同期で自分だけがレギュラーに選ばれた」といった場面が考えられるでしょうか。
試験に受かること、レギュラーに選ばれること自体は、喜ばしいことですが、単純にそれを喜べないのであれば、この種の「罪悪感」が影響している可能性があります。
もっと重いところでいえば、戦争や天災、事故などといった、人の生き死ににかかわる場面でしょうか。
私の祖父は、戦争を経験した世代であり、実際に戦地に赴いたそうです。
あまりその経験は語りたがらなかったのですが、仲間を亡くしたことがあったと聞いたことがありました。
自分と同じ立場でいた人間が亡くなって、自分が生き延びた。
いや、生き延びてしまった。
その壮絶な経験から、祖父がどれだけの想いを背負ってきたのか、戦争を経験していない世代である私には、想像もつきません。
簡単に「生きて帰ってこれて、よかったね」とは、決して言えない重さが、祖父のまなざしにはありました。
もちろん、そのおかげで、こうして私が存在しているわけですし、そうした生きる喜びもまたあったとは思います。
ただ、居間の安楽椅子で、茫洋とテレビを眺めている祖父のまなざしには、なんともいえない重さがありました。
なぜ、私ではなかったのか
「自分だけが助かってしまった」という罪悪感。
それは、「なぜ、あの人は助からなかったのか」「なぜ、私ではなかったのか」という、答えの出ない問いを、延々と考え続ける苦しさでもあります。
私には、祖父のような経験はありませんが、この「自分だけが助かってしまった」という罪悪感で、思い当たる場面があります。
それはやはり、父と母を亡くしたことでしょうか。
父は、何の前触れもなく、病で突然亡くなりました。
あまりに突然のことでしたので、当時はまったく現実味がなく、それを受け入れるのに長い時間がかかったように思います。
その葬儀のとき、母が「なぜ、私を置いていくのか、私もここに入りたい」と父の棺桶の前でつぶやいていた姿を、強烈に覚えています。
その母も一年後に亡くした私が、「どうして私だけが残ってしまったのか」という想いを抱くのは、ある意味で当たり前のことだったのかもしれません。
まあ、歳が上の者から亡くなるのは、ある意味で自然の摂理ではありますが、それでも「なぜ、自分が助かってしまったのか」という想い、罪悪感は、ずっと心の奥底にあったように思います。
「なぜ、私ではなかったのか」
答えのないその問いは、残った人の心を蝕むようです。
人は、自分が特別な存在であってほしいと願い、自らの幸運を願います。
しかし、そうしたものがいざ目の前に見えたとき。
それを受け入れることは、何よりも怖ろしく、そして苦しいことなのかもしれません。
「自分だけが助かってしまった」という罪悪感は、実に根源的なものであるようです。
2.2つの反応とその根底にある判断
2つの反応、いい私と悪い私
この「自分だけが助かってしまった」という罪悪感。
これがあると、私たちの心の反応は、2つの反応を示します。
それらは、ある意味で心の両の極を示しているので、私たちはその両方を行き来して苦しみます。
一つ目の反応は、こうです。
「自分が助かったんだから、前を向いて生きることが大切だ」
これは、誰が聞いても「そうだよね」と合意してくれるでしょう。
けれども、それはある意味で正論であり、私たちの心がそれで軽くなるわけではありません。
常に正しくあろうとすることほど、苦しいことはありませんから。
それゆえ、もう一つの反応との間で、私たちの心は揺れ動きます。
そのもう一つの反応は、こうです。
「私なんかよりも、あの人が助かればよかったのかな」
これ、周りの人にとっては、全力で「そんなことないよ」と言いたくなるのですが、「自分だけが助かってしまった」という罪悪感を持っている人にとっては、切実なんですよね。
ある意味で、人の心を推し量ることができて、他人の価値を見ることができる人ほど、その念に駆られることが多いのかもしれません。
そんな考え方は間違っている、と断ずるのは簡単です。
そんな風に考えたら、あの人が悲しんでしまうよ、と励ますことも簡単です。
けれども、「助かってしまった」という罪悪感を抱く人にとって、それは刻印のように、なかなか消えないものです。
「前を向いてがんばらないといけない」のは正しいのですが、さりとて「自分なんかよりも」という想いを消すこともできない。
その二つの極のあいだで、私たちは葛藤し、身動きが取れなくなってしまいます。
「いい」と「悪い」を決めている判断がある
こうした葛藤は、今日のテーマの罪悪感に限らず、私たちを悩ませるものです。
頭では、「こうした方がいい」と分かっているし、そうするのが正しいことだと分かっている。
けれども、心が「そうはいっても…」とついてこない。
どちらかに決めようとすると、同じだけの力で後ろ髪を引かれますので、非常に苦しいものです。
そうしたときに大切なのが、「いい」と「悪い」を決めている自分の判断を、いったん見つめ直してみる、という点です。
「自分は助かったのは、いいことだ」
「周りの人は助からなかったのは、よくないことだ」
自分のなかにある、そうした「いい」「悪い」といった判断を、見つめ直してみること。
判断とは、線を引くことです。
自分のなかにある何らかの基準をもって、仕分けをすることといえます。
そして、その基準のもとになっているのは、私たちが根源的に持っている「痛み」です。
3.判断の裏側にある「痛み」を癒す
判断とは、何が正しくて、何が間違っているかを分けることです。
そして、人が何らかの判断をするとき、その裏側には「痛み」があります。
先ほどの例でいえば、「レギュラーになるのが正しいこと」「補欠になるのはダメなこと」といった基準があるからこそ、罪悪感を抱くのでしょう。
他の例でしたら、「生きることは素晴らしいこと」「死ぬことは悲しいこと」といった判断があるからこそ、罪悪感が芽生えます。
そうした基準を、もう一度見直してみること。
それは、その判断基準のもとになった「痛み」と向き合うことといえます。
自分が選ばれなかった痛みかもしれません。
大切な誰かを亡くした痛みかもしれません。
そうした「痛み」と向き合っていくこと。
そうすることで、私たちは判断をゆるめていくことができます。
それは、自分のなかでの成功の意味が変わることでもあり、自分のふるまいを見直していくことにもなるでしょう。
それは、生と死の自分のなかでの意味づけを、再構築していくことにもなるのでしょう。
もちろん、自分のなかの判断を外すのは、とても難しいことです。
それは、ごく当たり前にしていることであり、ほとんど意識せずにしていることですから。
自分の力だけでは難しいこともありますから、カウンセリングなり、他の人の力を借りるのも、一つの方法です。
ただ、もしも、できごとに「いい」も「悪い」も、ないとしたら。
「自分だけが助かってしまった」というできごとは、どのように見えるのでしょうか。
ものごとの見方がポジティブに変わることを、「癒し」と呼びます。
そして、「罪悪感」の抜け道は、「癒し」に他なりません。
「自分だけが助かってしまった」という罪悪感は、しんどいものです。
そんな罪悪感を抱えているあなたの、ご参考になりましたら幸いです。
今日は、「自分だけが助かってしまった」という罪悪感と、その向き合い方、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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