いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
昨日は「何を言うか」「何を伝えるか」よりも、「どんな感情や意識でしたか」が伝わる。
だから感情という大切なセンサーに蓋をしてしまうと、感謝みたいなよい感情も感じられなくなってしまうよね、というお話でした。
今日は少しその続きのつれづれを綴ってみようと思います。
なぜ、感情に蓋をしてしまうのか、ということについて、以前こんなことを綴ってみた。
私がブログを書けるようになった、一つの心理的な区切り - 大嵜 直人のブログ
心のキズを癒すために、カサブタのように感情の蓋をつくる。
そして、その心のキズは親が原因となっていることが多い。
お母さんにもっと愛してほしかった。
お父さんの笑顔がもっと見たかった。
お母さんに笑顔でいてほしかった。
お父さんにもっと認められたかった。
人は産まれてきたときは愛に溢れた無敵の存在だ。
我が子を見ていると本当にそう思う。
それが成長する過程で愛のボタンの掛け違いをしたり、受け取り損ねたりしているうちにキズとなりカサブタとなっていく。
子どもはずっと親の背中を見て成長していく。
その影響は計り知れないほど大きい。
もう独立しているし、親は関係ない、とどれだけ思っていても、自分ではその影響になかなか気づかない。
私自身、これまで生きてきた中でいろんなターニングポイントはあったように思うけれど、やはり大きかったのは「親と離れて暮らす」ことと、「親と別れる」ことだったように思う。
それだけ無意識に受けた親の意識は大きい。自分で考え、自分で判断していると思っていても、その実は親の真似や親の価値観で判断していることがほとんどだ。
親の生き方をコピーしてしまうくらいに親が大好きな場合はもちろんそうだろうし、
思春期のある時期から中指立てて親を反面教師にして生きてきた場合も、親の影響下にある時点で一緒だろう。
ほんとうの自立って、親から離れてその影響下を抜け出してから始まるのだと思う。
もちろんそれは「離れて暮らす」という物理的な距離の場合もあれば、「今生の別れ」のような精神的な距離の場合もある。
それは人それぞれだけれども、その距離を開けるとようやくいろんなことが視点を変えて眺めることができるようになる。
癒しとは、見方を変えること
とは心理学の言の葉だが、まさにその癒しを起こすのは「親との距離」なのかもしれない。
そう考えると、どんな親との関係であれ最後には癒しに到るように思う。
親との葛藤、コミュニケーション不全、ケンカ別れ、早すぎる別れ・・・
人によっていろんな形で親との関係は現れる。
私も早すぎる今生の別れに感情を蓋をして、その見方を変えるのに15年間かかった。
でもそれは人の生きる孤独を知り、精神的な自立を促し、それでも寄り添ってくれる大切な人たちを与えてくれた。
どうしようもなく孤独で出口のなかった最悪の日々は、実は私にとって最高のギフトだった。
それは私の個人的なギフトであって、人それぞれに親との関係は異なるだろう。
長子であるのか、末っ子であるのか、生まれた年代の空気感、親自身の親との関係、あるいは親が再婚していたりする場合もあるだろう。
それでも。
私は、親の影響は絶大で、どんな関係であろうと、それは最高のギフトなのだと今は思ってる。
そして、どんな関係にするかどうかのハンドルは、実は自分自身が握っているのだとも。
今日もお越し頂きましてありがとうございます。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。