日記を書くようになったのは、いつごろからだろうか。
15年近くも使っている1日1ページの「ほぼ日手帳」に、その日のつれづれを思い出しながら、数行の日記を書いている。
その内容は、行動記録のこともあれば、心もようのこともあり。
この年のこの日は、こんなことがあったんだな、と後から見ると懐かしくもあり、また面映ゆくもあり。
けれど、日記の効用というのは、そうした「後から楽しめる」ということだけではないように思う。
心の中のぼんやりとしたよしなしごとを、一日、一日、とひとつずつ楔を打つこと。
形のないものに、形を与え、そして流していくこと。
それも、日記の持つ大きな力なのだろうと思う。
それは、一つの癒しとも言えるのかもしれない。
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モヤモヤするとき、ムシャクシャするとき、あるいはなんだかよく分からず落ち込むとき。
そういった感情から抜けるのに役立つことの一つは、「書くこと」である。
いま、自分が感じていることを何も判断せずに、「書いていく」こと。
怒りも恨みつらみも、感謝も愛も。
できれば、ペンを使ってノートに実際に書いていく。
そうした「書くこと」は、ごくごく単純なのだが、非常に有効なセルフ・ヒーリングの一つだ。
それは、自分の内面というマリアナ海溝よりも深い暗闇から湧き出てくる何か得体の知れないものに、名前を与え、形にするという行為だからなのかもしれない。
感情には、本来かたちもなければ、名前すらもないのかもしれない。
沸き起こる何がしかの衝動なり、滲み出る何がしかに、私たちは「怒り」や「悲しみ」といった名前を付ける。
名前が付けられると、私たちは安心する。
あれは、パンケーキだ。
わたしは、大嵜直人だ。
これは、坐骨神経痛だ。
あれは、ショパンのエチュードだ。
名付けられた瞬間、それは未分化などろどろとした世界から切り離され、ただの「モノ」や「コト」になる。
そうして、わたしたちは安心する。
名付けようがないもの、何かわからないもの、未分化なもの。
そうしたものを、わたしたちは本能的に怖れる。
いま、自分が何を感じているのか、分からない。
この私の中からあふれてくる、得体の知れない何がしかの激情なり、痛みなり、血しぶきなりが、怖く、不安にさせる。
「書くこと」は、それに名前を与え、形を与えることができる。
出てきたものが何か、考える必要はない。
ただ、うたかたのように、ただ、流していけばいいだけだ。
そもそも感情とは、うたかたのように、浮かんでは消えていくものだからだ。
それを形にせずに内面で留めておこうとすると、沸騰した薬缶のように、蓋を飛ばしてしまうかもしれない。
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立春を過ぎて、どんどん陽が落ちるのが遅くなってきているように思う。
少し前までは真っ暗だった時間に、まだ全然明るかったりする。
昼が長くなるほどに、必然的に夜の長さは短くなっていく。
陰陽と呼んでもいいし、バランスと呼んでもいいのだろう。
見えるものと、見えないもの。
見えないものを書いて形にすると、必然的に見えるものも形を変えていくのだろう。
かくも、「書く」ことの力は偉大であるようだ。