リアルタイムで体験したものとそうでないものとは、やはり熱量に違いが出る。
ライブであったりコンサートであったり、講演会であったり。
直接に「いま、ここ」の時間を共有することは、莫大な熱量を生み出す。
私は1980年生まれなのだが、オグリキャップが勝った1990年の有馬記念を録画でしか見ていない。
あの伝説の有馬記念をライブで見ていた人の言葉や記事を見るたびに、あの時間をともに過ごせた奇跡にハンカチを噛みたくなる。
そんな私だが、それから四半世紀サラブレッドを見続けていると、否が応でもそんな伝説になるレースが誕生する瞬間に立ち会うこともある。
1996年3月9日、第44回・阪神大賞典。
春らしさが徐々に感じられるようになってくる中で行われる、新緑の季節の大一番、天皇賞・春にむけての伝統の前哨戦。
この年は、前年と前々年の2頭の年度代表馬が出走することで、戦前から期待を集めたレースとなった。
1994年・年度代表馬、ナリタブライアン。
4月17日、皐月賞・サクラスーパーオーに音速の3馬身1/2。
5月29日・日本ダービー、エアダブリンに衝撃の5馬身。
11月6日・菊花賞、ヤシマソブリンに圧巻の7馬身。
季節が深まるほどに広がる着差は、いかに彼が同世代の優駿たちに比べて力が抜けていたかを如実に示していた。
そして迎えた12月25日、クリスマス決戦の有馬記念で同じ4歳のヒシアマゾンの追撃を振り切って、この年G1を4勝。
年度を代表する馬に選ばれた。
白いシャドーロールをトレードマークに、漆黒の馬体をグッと沈ませて走る姿は、まるで草食動物の群れの中に一頭だけ猛禽類が紛れ込んで疾走しているようだった。
残念ながらオグリキャップをリアルタイムで体験できなかった私にとって、ブライアンは初めて私が手にした「オレのスターホース」だった。
今ではスマートフォン一つあれば大概の情報は手に入ってしまうが、ネット環境のなかったあの頃のこと、日々必死にスポーツ新聞を集めてきてはブライアンの次走や調教タイム、関係者のコメントを読み漁ってはワクテカしたり、街の書店で扱っている数少ない競馬の月刊誌の特集を立ち読みしては、鼻息を荒くしていた。
競馬雑誌を並べてあるコーナーが必ず成人向けアダルト系の雑誌のコーナーだったのが、また鼻息を荒くしたのだが、それは置いておこう。
だがブライアンはさらなる飛躍が期待された翌年春、阪神大賞典を買った後に股関節炎を発症する。
ようやく復帰した秋のG1戦線では、まったく「らしさ」が感じられない敗戦が続いた。
そんな中、年も明けて1996年の阪神大賞典は、前年秋からコンビを組む鞍上・武豊騎手とともに復活を期すレースとなった。
1995年・年度代表馬、マヤノトップガン。
ナリタブライアンと同じ父を持つこの栗毛の優駿は、典型的な晩成型の成長曲線をたどった。
3月に初勝利を挙げるまでに4戦を要したが、その後は順調に500万下、やまゆりステークスと勝ち上がり、秋のトライアルの神戸新聞杯・京都新聞杯で連続して2着に入り、菊花賞に駒を進めた。
本番の菊花賞では、牝馬ながら挑戦してきて話題となったオークス馬・ダンスパートナーが1番人気に推されたが、先行して4コーナー先頭という横綱競馬で戴冠。
クラッシックホースの栄誉を持って出走した年末のグランプリ・有馬記念では6番人気の評価だったが、スタートから先頭に立つとそのままスローペースに落とす逃走劇でG1・2勝目を飾る。天才・田原成貴騎手の手綱が光った。
クラシック、グランプリとG1を2連勝したことで、年度代表馬の栄誉に浴し、さらに現役最強への道を歩み始めた翌1996年の始動戦が、阪神大賞典となった。
次代を担うのは、ブライアンか、トップガンか。
私のみならず、多くのファンの期待を乗せたレースのゲートが開く。
一団となって淡々と流れるレースは、残り600m付近で田原・トップガンがスパート。
トップガンしか眼中にない武・ブライアンも追撃を開始。
永遠にも感じる2頭の年度代表馬と2人の天才のデッドヒート。
馬体をあわせる。
リズムが合う。
逃げる。
追う。
抜く。
抜き返す。
これでもか。
まだまだだ。
差す。
差し返す。
抜き身の刀のつばぜり合いのような神経を張り詰めた時間のようにも見えるし、優雅にJ.シュトラウスのワルツを踊っているようにも見える時間。
35秒近くにも及んだ叩き合いの末、ブライアンが少しだけ前に出てゴール板を通過したとき、気づけば3着のルイボスゴールドを9馬身ぶっちぎっていた。
G2の前哨戦ながら、史上最高のレースの一つに数えられる名勝負。
それは同じ「いまこのとき」を共有した幸運な人たちの中で、永遠に輝きを放ち続ける。