大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

好きなことに夢中になっていると、なぜか周りの人が喜んでくれる。

昨日に引き続き、競馬ブログ&WEBフリーペーパー「ウマフリ」さんに寄稿させて頂いたことに寄せて。

 

SNSでも寄稿させて頂いたことを報告したところ、多くの方からお祝いのメッセージを頂きました。

「よかったねー」、「すごいね」といったメッセージに全身がカユカユしながらも、全力で受け取らせて頂きました・・・

さて、その中で、「私も嬉しい」「Happyになった」というメッセージを頂きました。

あれ、私は決して誰かのために何かしているわけではないのに、そんな風に思って頂けるとは、と不思議な気分になりました。

私自身は、寄稿をする際には「喜び」よりも「怖さ」の方が勝っていました。

自分のブログ以外のところで文章を晒して、掲載頂いたところに迷惑かかったらどうしよう。

この自分のブログを読んでくれるのは、私自身を知っている人が多い。
けれども、私を全く知らない人100%のところで文章を読んでもらって、何か言われたらいやだな。
いや、反応があればまだしも、何にも反応がなくてスルーされる方が怖いな・・・

書く前に、そんな「怖さ」がバリバリでました。

それでも書いてみたい、という欲求が上回り、何とか書き上げて投稿したのですが、掲載されてみると何ほどのこともありません。

肝試しやジェットコースターやバンジージャンプや・・・何でもやる前が一番怖くて、やってみると何でもない、ということはよくあります。

それと似たような感覚なのかもしれません。

そんな感じで掲載されたのですが、私よりも周りの方たちが喜んでくれました。

人は、知っている人が目標や夢を叶えると嬉しいもの。

そんな当たり前のことを、実感させてもらいました。

だとすると、自分の周りを幸せにするためには、自分を幸せにして自分の夢を叶えることが一番の早道なのだな、と。

以前、ワーカホリックだった頃の私は、ずっと「誰か」のために働いていました。

同僚のために
部下のために
上司のために
会社のために
お客様のために
取引先のために
家族のために・・・

自分に鞭打って、自分を犠牲にして、長い時間働いて、気配りして、空気を読んで、周りの人の気持ちを推し量って、「誰か」のために尽くしていました。

もちろん、それが「誰か」のためになっていたこともあるかと思います。

けれど振り返ってみると、思うのです。

ずっとそんな風にしている私を見て、きっと周りには「罪悪感」や「期待」というものを漏れなく配っていたのかもしれない、と。

怪我して血をダラダラ流しているのに「私は大丈夫だから、あなたのためにこれをしてあげるね」とか、

成果や結果というものを材料に「これだけやったから、私の価値を認めてね。私にも与えてね」とか。

残念ながらそれは、私のぽっかり空いた心の穴を埋めるための取引であって、ほんとうに「誰か」のためにしていることではありませんでした。

自分が満たされていないと、周りに与えることなどできません。

逆説的ではありますが、自分が満たされて好きなことに夢中になっていると、なぜか周りの人が喜んでくれるのです。

以前に心の中の世界は、目に見える原因と結果が全く逆の場合がある、と綴らせて頂いたことがあります。

「感謝」はスゴインデス。 - 大嵜 直人のブログ

周りに尽くして役に立って貢献する

 → 自分が満たされる

のではなく、

自分が満たされる

 → 周りに喜びや幸せを与えられる

の順番なのです。

前者は心の傷がつくる穴を埋めるために、「誰かのため」という隠れ蓑を使って「我慢」や「犠牲」をしてるだけです。

自分の周りの大切な人を幸せにしたいのであれば、自分を満たして自分を幸せにして自分の望みを叶えること。

以前の私であれば、傲慢や身勝手を正当化する詭弁に聞こえていたそれは、どうやら一つの真実のように今の私は思うのです。

「ウマフリ」さんに寄稿させて頂いた大きな大きな恩恵は、そんな気づきでした。

改めて「ウマフリ」さんと、寄稿を喜んで頂いた方には御礼申しあげます。
重ね重ね、ありがとうございました。

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