先日寄稿したウマフリさんへの記事に、ありがたい感想をTwitter上で見かけた。
泣いた。生きててくれてありがとう。現役最後のレース見に行けて本当に嬉しかった。君のファンで本当に良かった。 https://t.co/l1TEjSltv5
— でめきん@りお (@demekin00815) July 18, 2020
こういうのを、書き手冥利に尽きる、というのだろう。
ありがたい限りだ。
=
これでウマフリさんへ寄稿させていただいた記事は19本目になるが、回数を重ねることで、少し見えてくるものもある。
最初は、無我夢中に、好きなことの延長線でやれた。
それが、あるときふと気づくと、大海の真ん中で、寄る辺なく漂っているように感じる。
あれ、いつの間にかこんなところに来てしまった。
ひょっとして、知らないうちにとんでもないところに来てしまったのではないか…
「怖い」という感情を覚える。
それは、やはり周りとの比較から芽生える。
自分より、もっと詳しい人がいる。
自分より、もっと上手い人がいる。
自分より、たくさん評価されている人がいる。
自分より…
とたんに自分が、とんでもなくちっぽけな存在のように思えてくる。
怖くなる。
苦しくなる。
書けなくなる。
周りとの比較は、自分の矮小なプライド、すなわち無価値観がもたらす。
比較しなければ、優れていなければ、数が多くなければ、勝たなければ、存在する価値がないという、思い込み。
だから、
背伸びしようとする。
リアクションを欲しがる。
自分でない何かになろうとする。
そうして、自分がいなくなる。
そこに現れるのは、無味無臭な、魂の抜け殻だ。
そんなものには、だれも見向きもしない。
好きでしていたことのはずなのに、苦しい。
自発的にしていたことなのに、受け身になる。
何かを伝えたいはずなのに、こころは空っぽになる。
書くことは、こんなにも苦しかったのか。
=
その苦しさに悶えていると、見えてくるもの。
その空っぽなこころの底に、微かに残った澱のようなもの。
それこそが、きっと自分の背骨の一部なのだろう。
自分だからこそ、書ける文章。
自分にしか、書けない文章。
たとえ一文でも、一文字でも。
それが書けたときに、不思議とこころは満たされる。
周りの反応が、気にならなくなる
=
もちろん、そんなプロセスを通らない人もたくさんいるだろう。
私の場合は、というごくごく個人的なプロセスだ。
感想は、ときに書き手にいのちを吹き込む。
されど、種火は書き手の中にある。
それは、逆ではない。
=
ということで、その寄稿記事がこちら↓