「犠牲」とは、誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
それは、過去に満たされなかった欠乏感や無価値感が引き起こす心理なのですが、その処方箋とゆるめ方について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「犠牲」は、自分の望みが満たされなかったという過去の判断からくる
自分を犠牲にするのには二つの動機があります。
ひとつは、ほかのだれかによって過去に満たされなかった穴をうめようとすることです。
でも、これは現実的には不可能です。
そこでもうひとつは、満たされなかったうめあわせとしての役割を身につけ、その人々に「本当はあなたはこうするべきだった」という自分の判断を行動で示すのです。
すると表面的には自分のほうが彼らよりもずっとうまくやっているように見えます。
しかし実際のところは、身を捨てていると何も受けとることができません。
そして、さらにひどいぼろぼろの状態になってしまいます。
ここで過去に人々を理解し、許すことができたとき、私たちは前に進めるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.307
2.「犠牲」の心理とその源流
今日のテーマは「犠牲」でしょうか。
何度も出てきているテーマですが、それだけ身近な心理ともいえるのでしょう。
「犠牲」の心理
「犠牲」とは、誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
誰かのためになっているわけですから、やっていることは素晴らしいことのように見えます。
けれども、「犠牲」の意味の通り、やっている本人にとっては、充実感や喜びはありません。
そうした行動は、多岐にわたると思います。
気分が沈んでいるのに、笑顔をつくること。
自分の仕事をさしおいて、同僚を手伝ってあげること。
体調がしんどくても、家族のために食事をつくること。
傍から見れば、「すごいね、よくやっているね」ということかもしれません。
しかし、そこに自分自身に対する視点が欠けていると、やがてしんどくなってきます。
そして、「犠牲」をする傾向にある人は、そのしんどさを周りに悟られないようにして、さらにハードワークなりにはげんでしまいがちです。
すると、いつしか「何のためにこんなことをしているんだろう」という虚無感におそわれたり、燃え尽きてしまうかもしれません。
周りに対してやってあげている行動の素晴らしさと、自分自身への視点の欠如。
「犠牲」からの行動をしていると、いつもその間で揺れます。
「犠牲」の二つの源流
さて、そうした「犠牲」には、二つの動機があると引用文では言います。
まずは、過去に満たされたなったという欠落感であり、そこから派生する無価値感です。
何らかが得られなかったことにより、自分には価値がない、無価値である、という思い込みが生まれるわけですね。
それにより、「何かをしないと(誰かのためになっていないと)、私には価値がない」と感じる。
だから、身を粉にしたり、自分の身を挺したりしてでも、相手のために尽くしたりしようとする。
でも、自分の身を捨てているので、なかなかその報酬を「受けとる」ことができない。
なんだか、書いていて、とってもいじらしく感じてきました…
まあ、「犠牲」のさなかにいると、「いじらしい」という感じもまったくないのですが笑
それはさておき、「犠牲」には、そうした「無価値感」のほかに、「役割」による埋め合わせという動機もあります。
過去に、何らかの満たされなかったことがあった。
それは言い換えると、誰かからほしかったものを、与えてもらえなかった経験といえます。
そうしたことの埋め合わせとして、自分がその「与える」役割を身につける、というものです。
お父さんには笑顔でいてほしかった。
安心して心安らげる家庭が、ほしかった。
けれども、それは与えられなかった。
だから、自分がその立場になったときには、いつも笑顔でいるという「役割」を身につける。
そうすることによって、自分の正しさであったり、自分の価値を証明しようとするわけです。
「ほら見て、私はあなたとはちがって、こんなことができるんだよ」
「あのときのあなたは、まちがっていたんだよ。いまの私が、正しいんだ」
そんな声が、役割の心理の下には渦巻いています。
しかし、これも役割を演じているので、なかなかその価値を受けとることはできません。
どこか、その笑顔でいる自分と、ほんとうの自分との乖離を感じてしまうものです。
かくも「犠牲」とはしんどいもので、報われないもののようです。
3.「犠牲」への処方箋と、「許し」
「犠牲」への処方箋
さて、ここからは、そんな「犠牲」への処方箋です。
自分が「犠牲」をしていて、しんどいな、と感じたとき。
まずは、そこに気づけたことを、祝いましょう。
多くの人は、自分が「犠牲」をしていることに気づかないものです。
しかし、こうして心理学を学んだり、カウンセリングを受けたりして、自分の内面と向き合う中で、「犠牲」に気づいたわけです。
まずは、その気づけたことに、価値を見ましょう。
それが、「犠牲」の源流である無価値観を癒す、一歩目になります。
そして、そこに気づくと、「犠牲をしていたから、ダメだ」とか、「犠牲はまちがっている」とか思ってしまいがちですが、決してそうは思わないでいただきたいんです。
先に見たように、「犠牲」とは、誰かのために行動しているわけです。
見方を変えれば、自分の身を挺してまで、誰かのために行動できたともいえます。
それができる人は、とても深い愛情を持った人ではないでしょうか。
「犠牲」してまで、誰かのために行動できたこと。
笑顔で周りを和ませてきたこと。
同僚を助けてきたこと。
家族をおなかいっぱいに食べさせてきたこと。
「犠牲」だったかもしれないけれど、それがどれだけの人を笑顔に、幸せにしてきたか。
その相手だけではなく、その周りにいる人にも、与えてきたのではないでしょうか。
そのことに、目を向けていただきたいんですよね。
そして、その視線を、ほんの少しだけでも、自分自身をいたわることに向けていただければ、「犠牲」はゆるんでいきます。
そうすると、選択できるようになるんですよね。
大切な人のために行動するときと、自分をいたわるときと。
それを、自分自身で選択できるようになっていきます。
そうすると、周りからの好意や感謝を受けとれるようになったりして、少しずつ肩の力を抜いて楽に生きられるようになっていきます。
感情的理解と「許し」
もう一つの「犠牲」の処方箋は、「許し」です。
「またそれか…」と思われましたでしょうか。
はい、またそれです。「許し」は万能薬、ラストエリクサーのようなものです笑
「犠牲」の根源にある、満たされなかったという欠乏感。
そこには、「ほしかったものを与えてくれなかった相手」がいるわけです。
その相手に、心のどこかで批判していたり、怒っていたりするかもしれません。
あなたが「犠牲」をしているとしたら、誰に対して怒っているのでしょうか。
それは、お父さんだったりするかもしれません。
あるいは、兄や妹だったりするかもしれません。
そうした相手が、自分に対して与えてくれなかった。
なぜ、与えてくれなかったのか。
それを、感情的に理解する、というのが、「許し」へ至る一里塚です。
あのとき、お父さんも忙しくて、大変だったのかもしれない。
私が生まれたことで、兄もまた自立せざるをえなかったのかもしれない。
そうした感情的理解を示すことができると、ずいぶんと世界が違って見えます。
満たされなかった想いが、なくなるわけではありません。
ただ、あの人もそうせざるをえなかっただけなんだ、という理解と納得が、心のうちに芽生えます。
これが、大きいんですよね。
そう思えたら、もう「許し」への道をしっかりと歩んでいるといえるのでしょう。
もしあなたが「犠牲」をしていると感じるのでしたら、「私は誰に怒っているのだろう」と問いかけてみてはいかがでしょうか。
すぐに答えはでなくても。
少し違った景色が見えてくるかもしれません。
今日は、「犠牲」の心理とその処方箋について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。
※ただいま満席となっております。
※次回10月度の募集は9月26日(月)に開始の予定となります。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。