いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
今日は自分をいたわる、ということについて。
私たちは自分のすることについては、厳しい評価をしがちです。
もっともっと頑張らないといけない。
こんなことすらできない自分は、ダメな人間だ。
あの人は私よりも、たくさんこなしている。
こんなことしてしまうなんて、人としてどうかと思う。
私のすることなんて、大した価値もないことだ。
そんなこと、思ったことはありませんでしょうか。
私はだいぶ緩んできましたが、今でもふとしたときにこうした声を自分にかけてしまうときがあります。
みんな、きっと頑張り屋さんなんですね。
けれど、頑張ることは決して悪いことではないのです。
今日のこの仕事を終えたら、キンキンに冷えた麦ジュースが待っている・・・
楽しみにしている夏休みの旅行の計画を、頑張って調べる・・・
どうやったら楽器が上手くなるのか、いろんな方法で練習してみる・・・
あのピッチャーの球をどうやったら打てるようになるのか、必死に練習する・・・
何かの目標に向かって、頑張ることは喜びでもあり楽しみでもあります。
ところが、これが自分の無価値観を隠すための方法であったり、誰かに認められたり愛されるための犠牲であったりすると、辛いわけです。
延々と車輪の中を走り続けるハムスターのように、いつしか頑張ることが当たり前になり、自分の容量を越えていることに無感覚になり・・・
そして、自分が燃え尽きるか、周りからストップがかかります。
今、自分を犠牲にして頑張ることが、後々には利子が付いて幸せが返ってくると信じて頑張っていたのに。
もうそれ以上頑張らなくてもいいように、怪我や病気や心身の不調を覚えたり、
あるいは、頑張ったのに人から嫌われ、かえって孤独になってしまう。
それを経験すると、人は気づくわけです。
あ、この「頑張り方」で利子がついて返ってくるのは、喜びや幸せではなく、犠牲や我慢なんだ。
オリンピックのマラソンと同じように、スタート地点とゴール地点は一緒なんだ。無価値観や犠牲の競技場を出たランナーは、必ずその競技場に返ってくるんだ・・・
以前にもお書きした通り、私も頑張り族でした。
私一人、こんなに頑張っているのに、なんで誰も十分に理解して評価して感謝してくれないんだ!、と。
頑張らずに成果をあげる人、緩く真剣に仕事しない人に、「何でもっとやらないんだ!」とイライラしたり。
そりゃ、そうですよね。
自分が自分のことを理解して評価していないのですから。
そして、力を抜いて自然体で生きる人が、羨ましかっただけなのですから。
それに気づかず、無価値観と我慢と犠牲からの頑張りを続けていると、やっぱり返ってくる競技場は「無価値観」「我慢」「犠牲」の競技場なわけです。
本来、頑張るということは素晴らしいこと。
無心になって何かに取り組むことができることは、人生の喜びの一つ。
そんな頑張りを、日々の中で意図的に選択しようと思うようになりました。
まだまだ、我慢や犠牲からの頑張りをしてしまうことも多々あります。
そんなときは、「我慢や犠牲からの頑張りをした自分」をいたわるようにしてみるようにしています。
よく頑張ったね
しんどかったよね
寂しかったよね
よく我慢したよね
誰にもできることじゃないよ
そんな言葉を、自分の胸に手を当ててかけてあげるのです。
結局、自分のことを自分がどう扱っているか。
それが、世界から自分がどう扱われるのかを形づくります。
それは、自分のことをいたわり、大切に扱うことができれば、
世界をいたわり、大切に扱うことができるからです。
そんな人を周りの人が、世界が放っておくでしょうか。
ぞんざいに扱うでしょうか。
それとも・・・
それが、自己の内面と世界との不思議なつながりだと思うのです。
道すがらで見かけた、こんなところで羽化したセミの抜け殻。
そんな姿を見てかける声を、ぜひ自分にもかけてみてはいかがでしょうか。
頑張ってきたよね
よくここまできたね
えらかったね
誰にでもできることじゃないよ
よくやったよ・・・