さて、断酒85日目である。
断酒そのものの方は淡々と続けており、もうすぐ丸3ヶ月を過ぎようとしている。
始めた当初は、どれくらい続くものなのだろうか?と思ったが、意外と続くものだ。
これは人によって違うので何とも言えないのだが、「飲んでしまったら、また翌日から断酒すればいい」「いつまで断酒するかは、いま決めなくていい」くらいの緩い感じでいることが、長続きしている要因のように思う。
実際に、まだ私の自宅のキッチンの引き出しには飲みかけの焼酎のボトルと、父の形見の「百年の孤独」、そして開けるタイミングにいつも迷っていたウイスキーやバーボンなどの洋酒類が並んでいる。
もちろん、確たる決意を以て断酒をした方もいらっしゃると思うので、人によるとは思うのだが、いつでも飲めると思うと、あえて飲もうと思わないのかもしれない。
このあたり、この前京都に住んでいる友人と話していて、
「京都在住と言うと、『よく国宝、重文クラスの寺社仏閣が近くにたくさんあってうらやましい』というリアクションを受けるが、好きでもなければ、そんなところに頻繁に行くものでもないし、それに対してあまり恩恵を感じることはない」
と言っていて、なるほどな、と思った。
私も別に名古屋に住んでいるからといって、
そんなに頻繁にひつまぶしを食べるわけでもないし、
金のしゃちほこを見る機会などそうそうないし、
ういろうは久しく手土産としてしか買っていないし、
味噌カツや手羽先、海老フライのたぐいは、かろうじてたまに居酒屋で頼むくらいだ。
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さて、今日は断酒に関連して、嬉しいことがあった。
ライフワークを生きる友人が、断酒に挑戦することをSNSで知ったのだ。
いつもその友人の活躍はSNSで見ているのだが、私の断酒も少なからず影響しているようで、殊更に嬉しい。
友人の断酒へのチャレンジが、実り多きものになるように応援している。
実り多きもの、と書いたのは、続いたか続かなかったかは、どちらでもいいと思っているからだ。
それよりも、自分で考えて何かに挑戦するということ自体が素晴らしいし、それだけですでに成功しているともいえる。
誰かの挑戦は、誰かの希望となる。
それを教えてもらえたことだけでも、私の断酒は大きな大きな恩恵をもらった。
人は誰かの言葉に惹かれ、言葉に感動する。
その言葉の力を支えるのは、その人の行動だ。
怖れを越えて挑戦し続ける姿勢、
そこで出てくる自らの弱さや闇を受け入れようとする葛藤、
その葛藤をも愛そうとする人間愛。
そこから紡ぎだされる言葉だからこそ、力を持つのだろう。
そんな言葉を、紡いでいきたい。