さて、断酒794日目である。
もう日数ではピンとこないくらいになってしまったが、2年と2か月ほどである。
こと断酒生活に関しては淡々としたもので、特記すべきこともないのだが、嬉しいことがあった。
友人でありライフワークカウンセラーであり、かつ断酒仲間の岩橋隆盛さんが、そのブログの中で私の断酒について言及してくださった。
何度かこのブログでも、岩橋さんとの話を書いているが、断酒仲間としてお互いにエールを送り合う関係を続けさせていただいている。
そんな岩橋さんの周りでも、断酒をされる仲間が出てきて、その恩恵を受けておられるとのこと。
そのきっかけとなったのが、私の断酒だったということを書いてくださっていて、恐縮しながらも、嬉しい限りである。
2年前の霜月、小雨降る橋の上で、ただなんとなく決めた断酒。
それが、こうして周りの方や、そのまた周りの方に、何がしかの影響を与え、貢献することができたと思うと、感慨深い。
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面白いのは、私のその決断が、「誰かに何かしたい」という想いから出てきたものではない、ということだ。
このあたり、他者への貢献ということを考えるにあたって、非常に大切な視点を与えてくれる。
他者貢献とは、誰かに何かを与えること、貢献すること、助けること、あるいはそうしようとすることだと思われがちである。
もちろん、そうすることで他者に貢献する人もいるだろう。
しかし、時にそうした想いというのは、
与えることで相手と「取引」をしていたり(=見返りを期待したり)、
無償の行為をすることで自分の無価値観を振り払おうとしていたり、
本当に助けが必要なのは自分だったりしたり、
自分の罪悪感を善行で帳消しにしようとしていたり、
まあ、いろんなややこしい感情がともなうものだ。
このあたり、「あなたのためを思って言っているのよ」という台詞が使われるシチュエーションを考えてみると、分かりやすい。
たいていの場合、「あなたのため」というオブラートに包まれたその奥には、その台詞を発する「自分のため」という本心が隠れている。
本当にその人のためを思うのならば、言う前に聞くこともできるだろう。
もちろん、そうではなくて、純粋に「誰かのために」という想いでずっと動ける人も、多く存在する。それはそれで、素晴らしいことだ。
ただ、「誰かのために」という想いは、なかなかに自分のエゴと切り離すことが難しい。
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そうではなくて、逆の方向からの他者貢献というものもあるだろう。
すなわち、自分のために、好きに生きる、という方法。
文字にしてしまうと、それは自分勝手なことのように思えるが、必ずしもそうではない。
自分の思う道を生きていれば、時に誰かがそれを見て「よかった」「勇気づけられた」「ありがとう」と言ってくれることもあろう。
それは、目的ではない。結果だ。
もちろん、前述したように、誰かのために、何かをする方法もあるだろう。
けれど、それを意図しない、自分の道を好きに生きる、という他者貢献の方法も、あるのだろう。
断酒は、めぐりめぐって、そんなことを教えてくれた。
岩橋さん、ありがとうございました。
また今後ともよろしくお願いします。