数字を入れた瞬間、背筋に粟が立った。
ほとんどのセルの数字が赤くなる。
その赤い画面はまるで、足りないレベルで挑んでしまった「ドラクエのボスとの戦闘画面」のようだ。
ああ、またこれか。
何年かに一度起こる、仕事の暴風雨かサイクロンか、ハリケーンか。
「間に合わない。」
暴力的なまでに納期を優先する業界において、納期遅延はすなわち「死」を意味する。
間に合わない要因を、これまでいくつも見てきた。
税関でストップがかかって、モノが空港から出てこない。
供給先が倒れて、部品が管財人の管理下になってしまった。
数十年に一度の大雪で、交通網が麻痺して人が集まらない。
ラマダンの期間とバッティングして、社会そのものが動かない。
台風で倉庫が被災して、部品が水没した。
そもそもが、無茶な納期要求・・・
それでも、「納期は絶対」らしい。
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その瞬間から、リードタイムは「日数」から「時間」になり、一日は8時間から24時間になる。
この計画を成り立たせる解は、あるのか。
時間、場所、人、デリバリー、設備、能力、材料、コスト・・・すべての要素が複雑に絡んだ綾を解きほぐしていくように、最適解をシミュレートする。
それらの材料を使って、画面の中の赤いセルを一つずつひっくり返して黒い駒にしていく。
到底歩けないと思われた暗闇の中にも、一筋の光は引くことができる。
その光をひとつずつ現実のものにしていく。
そのために、おおよそ成り立ったとも思えない画餅の計画をもとに、走り出すしかない。
落とし穴に嵌って暴れながら、走るしかない。
まるで「ドラクエ」のように、
仲間を集め、話を聴き、長老を説得し、神輿を担ぎ、灯台に光を灯す。
刻々と変わる戦況と、更新される必要な情報。
誰が何をしているのかを読み、次の一手を考え、次の落とし穴を予測する。
オーバーワークの頭からは煙が出て、頭皮がぶよぶよになって中空に膨らんでいるように感じる。
毎日、五月雨のように訪れる納期を一つ一つクリアしないと、夜は訪れない。
そしてその夜は、翌朝の納期を守るためのリソースとなる。
極度の寝不足は、泥酔よりも性質が悪い。
冷静な判断力を失わせ、怒りやイライラといった単純な感情に支配される。
それも分かっていながら、喧騒の中で声を荒げ、地雷を踏みに行く。
ここぞとばかりに感情を排し、正しさを主張する。
こういうときに頼れるのは、楽観でも悲観でも才能でも努力でもない。
ロジックと数字だけだ。
そのために、ロジックを反証し、数字を積み上げる。
ただ、間に合わせるために。
不思議なことに、そこでは誰しもが「お客様のため」という大義名分では動いていないように感じる瞬間がある。
ただ、間に合わせるために。
一瞬一瞬に、必死になる。
ああ、またこれか。
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儲かる仕事とはかけ離れた、こんな砂上の楼閣を築いては崩す徒労のような仕事ほど、「仕事をしている」気になってしまうのは、この世の人の常だ。
それは、マイナスをゼロにするだけの仕事だ。
おそらく、世の儲かる仕事というのは、こんなに「頑張る」とか「必死になる」とかとは、遠い世界にあるのだろう。
ゼロにプラスをして、さらにそれを積算するような仕事。
それは分かっているけれど、その「頑張る仕事」に必死になっているときはいまを生きているような心持ちになるのだ。
それはまるで、
大切な恋人にフラれてみたり、
病で自分の身体を痛めてみたり、
道ならぬ相手に抱いた恋心を持て余してみたり、
他人をコントロールしようとして自爆してみたり、
自分の価値を貶めるような相手に媚びてみたり・・・
そうして、ジェットコースターのような感情を味わうことが、生きている実感を最も得やすい。
それが楽しいから、そうしているだけなのだ。
「それが楽しくメリットがあるから」という以外に大した理由はないことに、傍から見てみれば気づく。
そういうプレイがお好みなんですよね。
そういうシチュエーションをやめない方が、やめる方よりも、今のあなたにとってメリットが大きいんですよね。
だから、それを選んでいるんですよね。
別にそれをやめてもいいのに、本人だけがそれに気づかないでいる。
今朝の卯の刻の中天にも、また綺麗な月が浮かんでいた。
頑張ってもいいし、もう頑張らなくてもいいよ。
そう囁かれているようにも見えた。
頑張らなくてもいい。
もう自分を犠牲にしてまで、自分の人生において通り過ぎるだけの誰かのために頑張らなくてもいい。
無理して柄じゃない役割を演じなくてもいい。
デキる人を装わなくてもいい。
優秀さを証明しようとしなくてもいい。
誰かの役に立つことで存在意義を感じようとしなくてもいい。
ただ、自分のできることだけをすればいいんだろう?
そう、分かっているよ。
けれど、頑張ってしまうんだろうな、きっと。
私だから、きっと。
疲れ切った身体に曙光はこたえる。
しばしの眠りにつくまで、そのまま見守っていてくれ。
つかの間の休息までの道のりを照らしておくれ。
明日はどんな顔を見せてくれるのかな。
また会おう、月よ。