「癒しとは、視点を変えること」と言われる。
いままで自分の見てきた世界を、少し違った角度から見ること。
それが、「癒し」なのだと。
それは、無理矢理にポジティブな視点から見る、ということではない。
視点を変えるということは、自分を外から眺めるということなのだと思う。
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たとえば、この一枚の写真。
寂しそう。
美しい。
綺麗。
不安な気持ち…
何を感じるかは、人それぞれだ。
外の世界に見えるものは、内面の世界の投影と言われる。
一日外で遊び倒した子どもなら、夕暮れの訪れの早さに驚き、まだ遊びたいと思うかもしれないし、
これから大切な仲間との夕食を控えているなら、心は踊り、美しい夕陽だと思うこともあるだろう。
一方で、
傷ついて明日に希望が見えないとき、沈む夕陽から広がる暗闇が、堪らなく不安な気持ちを掻き立てることもあるだろうし、
あるいは愛する人との望まない別れが起こったばかりのときには、このオレンジ色のグラデーションが別れの痛みを刺すこともあるのだろう。
起きていることは全てニュートラルであり、それに色付けをしているのは私たち自身なのだ。
その上で、「癒し」が起こるとは、どういうことだろうか。
「癒しとは視点を変えること」が真実だとするなら、視点を変えるとはどういうことだろうか。
夜の闇の訪れの合図のようで、不安と痛みの象徴にしか見えない、この夕暮れの風景を、喜びと美しさから見るということだろうか。
そうではない、と私は感じる。
「視点を変える」とは、
「その夕暮れの風景を見て、一喜一憂している私」を、
舞台で演じる役者のように見ている自分がいることに気づくことなのだ。
不安や痛みを感じている自分自身を、舞台やテレビドラマの演者を見るように眺めている自分が、必ずいる。
その舞台でどんな演目が現れようとも、それを見ている自分は安全なのだ。
そして、その舞台でどんなことが起ころうとも、それを見ている自分は傷つかない。
まして、いつかその舞台が幕を下ろしたとしても、それを見ている自分が終わるわけではない。
沈んだ夕陽は、また東の空から昇るように、
月がどれだけ満ち欠けして見えようとも、本来の形が変わらないように、
潮がどれだけ満ち引きしようとも、海という概念に変わりはないように、
舞台の上で何が起ころうとも、それを見ている自分には何も関係がない。
その本来の自分は傷つきもしないし、その輝きが失われることはない。
そんな自分がいるということに、気づくこと。
それこそが、「癒し」であり、だから「癒しとは視点を変えること」と言われるのだと私は思う。
どんな風景や出来事もニュートラルで、起こっていることに意味はない。
それにどれだけ傷つき、悩み、苦しんでいようが、その人の本質には一切関係がない。
その本質の輝きは鈍ることなどないし、まして失われることなどない。
それに気づくことが、「癒し」と呼ばれるのだろう。