「事実」と「真実」は異なる、というお話です。
自分にとっての「真実」を見つけることを、癒しと呼んだりもします。
そして「真実」は、決してあなたを傷つけないものです。
1.「事実」と「真実」の違い
「事実」と「真実」という考え方があります。
よく似た漢字ですが、心理学においてはずいぶんと違うものです。
まず「事実」とは、客観的なものであり、実際に起きたできごとを指します。
「今日の最高気温は23度だった」
「彼は待ち合わせの場所に現れなかった」
「父は自営業をしていて、土日も家にいなかった」
…などなど、それは誰が見ても同じもの、といえます。
見る人によって、最高気温が変わったりしないですもんね。
それに対して、「真実」は少し違います。
起こったできごとや事実に対して、自分がどう受け止めるかが、「真実」です。
それは、一つではありませんし、見る人によって変わるものです。
「今日はとても心地のいい、過ごしやすい陽気だった」
これも一つの「真実」といえます。
「昨日からずいぶんと気温が上がって、身体が慣れなくてしんどかった」
これもまた、その人にとっての「真実」なのでしょう。
同じように、「待ち合わせの場所に現れなかった彼」も「週末家にいない父」というできごとに対して、私たちは自分なりの解釈をしていきます。
当然ながら、その「真実」のなかには、悲しいと感じるものもあれば、うれしい、ありがたい、と感じるものもあります。
それは、その時々、タイミングによって、変わるものです。
「事実は変えられないが、真実は変えられる」と言われるゆえんですね。
2.「真実」と「癒し」について
ものごとの見方をポジティブに変えることを「癒し」と呼ぶ
さて、その見方をポジティブなものに変えることを、「癒し」と呼んだりします。
「癒し」と聞くと、どこか超能力的な、あるいはふんわりとした印象を受けるかもしれません。
もちろん、それもまた「癒し」の一部なのでしょう。
しかし、こと心理学においての「癒し」とは、ものごとの見方をポジティブに変えることを指します。
ネガティブな見方、あるいは自分を苦しめたり、傷つけたりする、ものの見方。
それを、ポジティブなもの、自分にとってやさしいものの見方に変えること。
それを、「癒し」と呼びます。
言い換えると、「癒し」とは、自分のなかの解釈を、自分にとってポジティブなものに変えていくことといえます。
在学中は大嫌いだった先生が、卒業して時間が経つと、その先生の言っていたことが身に染みる、みたいなこともあるでしょう。
とても辛い失恋を経て、幸せなパートナーシップを築くことができると、「あの失恋があったからこそ」と捉えることもできるのでしょう。
人生最悪のできごとが、自分の人生をはじめるファンファーレになることだって、あるのでしょう。
ポジティブな見方というと、ざっくりしてしまいますが、「愛から見る視点」と表現することもできます。
「そこに愛があったのだとしたら」
それは、私がカウンセリングのなかで、大切にしている見方でもあります。
時に「真実」は悪魔の姿に見えたりもする
しかし、そうした「真実」ですが、同時にこうした格言があります。
「真実は、それを受け入れるまで悪魔のように見える」
悪魔、と聞くとビックリマンチョコを思い出すのですが、年代がバレますね笑
それはさておき、そうなんです。
「真実」とは、自分がそれを受け入れるまで、最も受け入れがたいことのように見えるんです。
先の例でいえば、いくらその先生が真摯に伝えてくれたとしても、なかなかそれを受け入れるまでは「うるさい!」としか感じないものです。
あるいは、ひどい失恋をして、すぐに「この経験があったからこそ」とは思えないものです。
それどころか、その先生や、ひどいフラれ方をした恋愛は、まさに「悪魔」のように見えるかもしれません。
カウンセリングでも、よく親との関係がテーマになることがあります。
自分の望むような愛し方をしてくれなかった親。
その親に対して、不満や怒りを感じこそすれ、「それでも、親は自分を愛していた」なんて、簡単には思えないし、受け入れられないものです。
「真実」は、受け入れるまで悪魔の姿に見えるとは、そうした意味で深い含蓄がありますよね。
3.それでも、「真実」は決してあなたを傷つけない
「真実」は決してあなたを傷つけない
さて、先ほどの格言には、続きがあります。
「真実は、それを受け入れるまで悪魔のように見える」
「しかし、真実は決してあなたを傷つけない」
それがどれだけ悪魔のように、受け入れがたいことに見えたとしても。
「真実」は、決してあなたを傷つけないものです。
先ほど、「愛から見る視点」と書きましたが、そうした視点で見る限り、その「真実」は誰も傷つけないものです。
逆に見れば、誰も傷つけない視点を、私たちは「真実」と呼んでいるのかもしれませんね。
「FOOTPRINT(あしあと)」という詩から
そうした「真実」を考えるとき、私は「FOOTPRINT(あしあと)」という詩を思い出します。
もし、ご存知でないようでしたら、こちらからどうぞ↓
人生で最も辛く、しんどい時期。
そこには、一つのあしあとしかなかった。
なぜ、そのような辛く悲しい時期に、誰も一緒に歩いてくれなかったのか。
それを主に尋ねると、「あしあとが一つだったのは、私があなたを背負って歩いていたのだ」と答えられた、と。
ぜひ、原文で味わっていただきたい詩です。
一つしかあしあとがなかった、そんな風に感じる人は、それだけ自分ひとりで頑張って生きてきた方なのでしょう。
何があっても弱音を吐かず、自分の力で人生に立ち向かってきた人。
そんな人が、「あしあとが一つだったのは、実は神さまが背負ってくださっていたからなんだ。あなたは一人じゃない。見捨てられてなんかいない」と言われたとして、簡単に受け入れられるでしょうか。
それこそ、悪魔の戯言のようにすら、聞こえるかもしれないと、私は思います。
それだけ、荒涼とした世界を一人で歩いてきたのでしょうから。
そう感じるのも、当たり前ではないかと感じます。
けれども。
その見方がその人を傷つけるかといえば、そうではありません。
そこには敵も味方も、善悪もなく、ただ、愛があるように思います。
それが、「真実」の意味だと私は思うのです。
そして、そのような見方を、カウンセリングでお伝えしてきたいと思っています。
今日は、「事実」と「真実」の違い、そして「真実」についての見方をお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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