「癒しとは、視点を変えること」と言われる。
視点を変えるとは、自己を客観視すること。
あなたは、目の前でめまぐるしく起こる出来事に反応し、ああせえこうせえと煩く騒ぐ思考に囚われ、それに対して湧き起こる感情に一喜一憂している。
もしも、そのあなた自身を観ているあなたがいるとしたら。
それは、部屋の斜め後ろの空中から、目に手を当てて横になるあなたを観ているように。
デスクの横の窓の外から、キーボードを急いで打つあなたを眺めるように。
よく晴れた空の上空から、トボトボと駅へ歩くあなたを見つめるように。
どんな想いが浮かぶだろう。
何を落ち込んでるんだ、もっと頑張れよ、だろうか。
お前はダメな奴だから、もっとやらないと周りが迷惑するぞ、だろうか。
お前はそんなんだから、いつもみんなから嫌われるんだよ、だろうか。
それとも。
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多くの人が自己否定をやめようと思って嵌るのは、「(不本意ながら)自己否定をしてしまう自分を否定してしまう」という罠だ。
脳は否定語を理解しないので、「〇〇をしちゃダメ」は「〇〇せよ」としか認識しないからだ。
自分を愛するとは、自己受容とは、単に「自己否定をやめる」 ことではない。
「自己否定をしている自分」を、受け容れることだ。
「自分が好きじゃない自分」を、好きになることだ。
「自己否定をやめられない自分」を、愛することだ。
そのメタ視点を持つこと。
それを人は、「癒し」と呼ぶ。
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さりとて、どうしたらそのメタ視点を持てるのだろう。
一つのヒントは、「今まで自分を愛してくれた存在」を思い出すことかもしれない。
人はパンとミルクだけで大人になれるわけではない。
どんな人にも、愛を注いでくれた存在が必ずどこかにいた。
それは、必ずしも親とは限らない。
遺影の中で微笑む祖父母かもしれないし、
兄や妹といったきょうだいかもしれないし、
通っていた塾の先生かもしれないし、
いつも嬉しそうに近寄ってきたペットかもしれない。
あなたにずっと愛を注いでくれたのは、誰だろう。
そしてそれは、あなたが望む形の愛ではなかったかもしれない。
優しく寄り添うだけが、愛の表現ではない。
何も言わず遠くから見守ることが、愛の表現の人もいる。
家に帰らず一生懸命働くことが、愛の表現の人もいる。
ただそこで揺蕩っていることが、愛の表現の人もいる。
あなたから離れることで愛を表現した人もいるかもしれないし、
あなたを傷つけることで愛を表現した人もいるかもしれない。
だから、どうということもない。
ただ、そうして表現することしかできなかったのかもしれない、というだけだ。
そして、その愛に気づいた分だけ、自己否定の悲しみは空に還っていく。
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これまでのあなたに、ずっと愛を注いでくれたのは、誰だろう。
そのことを考えると、いま目の前で起こっている喜劇と悲劇をふっと離れて、あなたを外側から見つめる時間が訪れる。
その時間は、
春の輪郭がぼやけた空を眺めながら転がった芝生の感触のように、
遊び疲れた夏の夜に母のあおぐうちわの風のように、
掛布団をタオルケットから布団に変えてもらった夜の鈴虫の音色のように、
祖母と過ごした冬の暖かな縁側の陽だまりのように、
とても優しく穏やかなはずだ。
その視点は、あなたをずっと愛してくれていた人の視点なのだから。
いまはもう、会えない人かもしれない。
けれど、ずっと愛してくれていた。
どんなに傷ついても、
どんなに悩んでも、
どんなに苦しんでいようとも、
それはあなたの本質には関係がない。
どんなに隠しても、
どんなに否定しても、
どんなにやさぐれても、
あなたの輝きは失われることはない。
その輝きを、僕はずっと見ている。