大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「やりたいことが見つからない」という心理についての一考察。

やりたいことが、見つからないとき。

好きなことが、わからないとき。

「どんな感情を味わいたいか」について考えてみることが、一つのヒントになるのかもしれない。

そして、その先に求められるのは、精神的な意味での「親からの自立」である。

好きなことをして、生きていこう。

ここ数年来のトレンドであり、キラーワードでもある。

実際に、以前では考えられなかった「好きなこと」で、実際に稼いで生計を立てることが可能になっている。

ブログやYoutube、各種SNSなど、それを可能にするツールが、マスの需要(プロ野球選手やピアニスト)ではなく、ニッチなそれをお金に変えることを可能にした。

「すべてのサービスはマッチングである」という言葉を聞いたことがあるが、インターネット(特にスマホ)はどんなニッチなサービスをも顧客とつなげ、マッチングできるようにした。

これらのことは、今さら書くことも憚れるくらいに当たり前になってしまったけれども、改めて考えると、とんでもないことが起こっているのだな、と感じる。

スゴイ時代である。

さて、その時代の変容とともに、世の人の悩みも変わった。

「好きなことをして、生きていこう」の前に、

「好きなことって、何だっけ?」

「やりたいことが、見つからない…」

という悩みを抱くことが多くなったように思う。

やりたいことが、見つからない。

私の周囲でも、そう言う人はいる。

仕事であったり、家事であったり、育児であったり…

ほんとうに心から「やりたくてやっています」と言い切れることは、いったいどれくらいあるのだろう。

そう考えると、自分のやりたいことは、何だろう?という思考になるのも、自然なことのように思う。

いったい、「自分のやりたいこと」って、何だろう?

一つのヒントになるのは、感情であると思う。

「こんな感情を味わいたい」、と思う感情。

それは誰の胸の内にでも、あると思うのだ。

そしてそれは時に、幼い頃に好きだったものにヒントがある。

駄菓子屋さんに100円玉を握りしめて行ったワクワク感。

イベントで綺麗なドレスを着たときの高揚感。

思い切り振ったバットにボールが当たった瞬間の手の痺れ。

飽きるまで世界地図を眺めていたときの夢の中の世界。

人それぞれ、何がしか好きだったことがあるものだと思う。

その素晴らしい「好き」な要素には、

「普通の人はやらないよな」

「お金にならないからな」

「そんなことしても意味ないな」

「時間の無駄になるかもな」

「誰かに迷惑かけるかもしれないよな」

という声が、自分の中から聞こえてくるかもしれない。

その声を一つ一つ抱きしめて、「大丈夫だよ。今までありがとうね」と許可を出していく。

「好きなこと」「やりたいこと」を見つけるって、そんなプロセスのように思う。

ところが、見つかった「好きなこと」「やりたいこと」に、ブレーキをかけてしまうことがある。

お金を稼げないといけないから

誰かの役に立つことでないといけないから

胸を張って好きって言えることでないといけないから

そのような考えが、頭に浮かんでしまう。

好きなことを隠してしまうそのブレーキは、結局のところ、

他人から嫌われないか

人から非難されないか

誰かから批判されないか

社会に認められないかもしれない

という、「他人からの目線」への怖れだ。

そして、その「他人からの目線」の「他人」とは、結局のところ「親」に他ならない。

これをやったら、親がどんな反応を示すのか。

喜ぶのか、苦々しい顔をするのか、それとも無関心なのか。

子どもの頃、私たちは全力をもってその反応を探り、親の目線を気にしてきた。

とどのつまり、「好きなことを好きと言う」というのは、「親から自立する」ことと同義ともいえる。

親からの自立というのは、三つのフェーズがある。

身の回りのすべてのことをお世話してくれた親から、肉体的な自立。

思春期に中指を立てて、暴言を吐いて反抗して、親を離れる、精神的な自立。

成人して糧を得て金銭的に独立する、経済的な自立。

多くの場合は「肉体的」→「精神的」→「経済的」と自立のフェーズを踏むが、何らかの理由で「精神的」自立をすっ飛ばしてしまう場合がある。

私の場合も、そうだったように思う。

きょうだいの激しい反抗期を小さい頃に間近で見ていて、少し引いてしまっていた。

自分が思春期になる頃には、父が単身赴任で家を出たので、一人になった母に反抗するのはためらわれた。

そして家を出て下宿しているうちに、父と母と両方を突然亡くしてしまったので、「精神的」に自立するチャンスを逃した。

肉体的、経済的には自立していても、「精神的」には未だ自立していない状態だったのかもしれない。

人から嫌われることが極端に怖くて、いい人をしてしまう。

なかなか好きなことを好きと言えない。

誰かから評価されるとか、認められるとか、そんなことに目が向いてしまう。

今でも、そうした怖れと向き合っている最中だ。

それでも、幸いにして「書くこと」が好きだと気づいたので、こうして毎日文章を綴ることを続けている。

そして、やりたいことが見つかったなら、あとは淡々と続けるだけだ。

奢らず、威張らず、焦らず、腐らず、怠けず。

ただ、そこに咲く花のように。 

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