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今日は春分の日ですね。
そんなよき日に、少し親からの自立ということについて綴ってみたくなりました。
私が考える親からの自立は、3つのステップがあります。
- 自らの無限の可能性を信じて疑わない幼少期
- 与えられた価値観を窮屈に感じ、反抗する思春期・青年期
- もう一度、自らの無限の可能性を信じて、魂の赴くままに飛び立つ成熟期
それぞれのステップがどのくらいの年齢的なものは、人それぞれ違いはあると思うのですが、おおよそ1.が小学校入学前くらいまで、2.が思春期から30代くらいまで、3.がそれ以降のようなイメージです。
中にはイメージに当て嵌まらずに、人生を早送りで楽しんでしまう方もいますが、多くの人はこの年齢のときにステップを踏んで自立をしていくように思います。
さて、前置きが長くなりましたが、それぞれのステップを詳しくご説明します。
1.自らの無限の可能性を信じて疑わない幼少期
生まれたばかりの赤子は、真っ白なキャンバスのように無限の可能性を持っています。
もしも輪廻と魂というものがあったとしたら、今生で何を経験しようかとワクワクしながら、この世に生まれてきたはずです。
純真無垢な彼らは、自分たちが無限の可能性を持った存在だと疑いません。
彼らは、全力で笑ったり遊んだり泣いたり食べたり走ったり怒ったり食べたり創造したりします。
ただ、描きたいから描く。
ただ、走りたいから走る。
悲しいときには、涙を流して悲しむ。
嬉しいときには、飛び上がらんばかりに喜ぶ。
そう、自分の好きなようにこの世を遊び、飛び回り、熱中し、没頭するのです。
毎日が全力で、その日を生きているように私には見えます。
しかし、そんな自由に心の赴くままに遊び想像する純真無垢な魂だが、やがて成長するにつれ、その真っ白なキャンパスにルールがあることを徐々に知っていきます。
それは、社会の常識や空気といった類いのものです。
2.与えられた価値観を窮屈に感じ、反抗する思春期・青年期
社会の常識や、空気といった類のもの。それはときに、
あなたには似合わないから、暗い色は使わない方がいいよ。
画用紙ってのはさ、長方形じゃないといけないんだよ。
きみの筆遣いはとなりの子に比べて変だから、直そうか。
ちゃんと描き始めた絵は最後まで完成させないと、だめだよ・・・
そんな言葉を耳にする機会が増えていきます。
そんなふうにして無垢な魂が教え込まれるその常識や空気とは、言ってしまえば結局全て「親の価値観」です。
いい学校に入らないと、就職できないよ。
わがままばっかり言ってると、みんなから嫌われちゃうよ。
お姉ちゃんなんだから、妹の面倒を見てくれないとダメよ。
お父さんも一緒に遊びたいけど、今日も家族の生活のために働くんだよ。
そうやって、無垢なる魂に手かせ足かせをはめていこうとします。
やがて真っ白なキャンバスは、その常識や空気によって画一的に管理された色を、指定された場所に塗るだけの絵を描くことを求めらていると感じるようになります。
当然ながら、もともと自由に遊んでいた魂は窮屈さを覚え、反発しだします。
思春期と呼ばれる時期に、多くの人は親から距離を置くようになり、物理的、精神的な自由を求めて大人(多くは親)や社会に対決を挑むことになります。
しかし経済力であったり、権威であったり、常識であったり。
残念ながら、そうしたものに屈していってしまいます。
生まれてからずっと世界の全てだった親。
大好きだった分、その親を救うために自由だった魂は「親のための」選択をすることを選び始めます。
親の教えに忠実だったり、その生き方をコピーしようとする人もいますし、逆に反面教師として親と正反対の生き方を選ぶのも、また「親の価値観」のもとにいることの証明にほかなりません。
3.もう一度、自らの無限の可能性を信じて、魂の赴くままに飛び立つ成熟期
しかし、やはり本来は自由な魂にとって、他人(=親)の目やルールに縛られたままでは自由に羽ばたけず、窮屈になってきます。
多くの人にとって、自らの魂の生きる道を考えさせられる出来事が起こります。
多くは30代から40代に起こるようで、それで「厄年」という言葉があるのかな、とも思うのです。
それは人間関係であったり、仕事であったり、お金であったり、健康であったり・・・
その大きさもそうなのですが、その年代で起こる問題が難しいのは「自分が今持っている価値観では解決できそうにないから」ということがその難しい理由です。
今まで自分の力で頑張ってきた人には、周りの人に助けを求めたり任せたりすることが必要になったり、
周りの人のためにずっと尽くしてきた人には、自分のことを優先して大切にすることが求められたり、
お金を貯めて節約することを美徳としてきた人には、自分の喜びにお金を使う・お金を循環させることが大事だったり、
自分の外側にずっと目を向けてきた人には、自分の内面を深く掘り下げることが必要になったり・・・
もちろん、その逆になる場合もあります。
問題を解決するためには、どうしても「自分の価値観の外にあること」=「やりたくないこと」に目を向ける必要が出てきます。
そこでようやく「自分(=親)の価値観」の外に出てみることは、自らの魂の自由さを認め始める、ということです。
すると不思議なことに、次第に人生が変容していきます。
それは、「親の価値観」を捨てるということではありません。
自分の手かせ足かせとなって縛られて窮屈だと感じていたその「親の価値観」が、実は自分を守ってくれていた「最強の盾」だった。
そしてその「盾」は、子どもを想う「親の愛」からできていた。
・・・ということに気づくだけです。
しかし、そこではもう「盾」は要りません。
「盾」が必要なのは、攻撃してくる相手がいるからこそ。
実は、世界にはあなたを攻撃してくる敵はどこにもいなかったのです。
「盾」を手放したら、その空いた手で好きなものを掴むことができます。
しかし自分の魂の力を信頼して道を歩き出すと、突然自分の周囲が騒がしくなってくることがあります。
「お前にはできないよ」
「みんなおかしいと思ってるよ」
「やめといたほうがいいよ」
そのようなことを話す人が現れるかもしれませんし、そんなふうに感じる出来事が起こるかもしれません。
しかし、自分の魂の持つ力に100%信頼やコミットをしていると、偶然とは思えないようなことが次々に起き、問題は問題でなくなっていきます。
人はそれを「奇跡」と呼んだりするのでしょう。
夜明け前が一番暗いと言われるように、もしかしたら大きな抵抗があるとしたら、好転反応なのかもしれません。
自由に飛び立った魂はどこへ飛んでいくのでしょうか。
それは、本人にも分かりません。
もしかすると後世から振り返ってみれば、大きな何かを成し遂げているのかもしれませんし、あるいはたくさんの人に愛とギフトを贈ることができるのかもしれません。
それは分かりませんし、そうした「結果」はさして重要ではありません。
なぜなら、自由なる魂はただ心の赴くままに楽しく飛び回ること自体が目的なのですから。
季節が移り替わる今日のよき日に、少しそんな親からの自立のプロセスを綴ってみましたが、いかがでしたでしょうか。
少しでも何か感じて頂けることがあれば、幸いです。
今日もご来店頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。