何が怖いって、この真っ白な画面が怖いのだ。
こののっぺらぼうのような画面を、見たくないのだ。
観念して降参してパソコンを立ち上げ、あとは野となれ何とやらで、ようやく一文字目を入れるまで、グダグダウダウダする。
毎回こうだ。
ほんとうに、私は今回もこの画面を黒くできるのだろうか。
たまらなく、怖い。
それにしても、今回の怖さは別格だ。
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フィクションを書くことの、何が怖いのか。
書いたもので、自分のすべてが丸裸になることなのだろう。
それは、このブログで書いているような、「私はこう考える」という意思表明や、「こう感じた」という感想文や、「こういう知識がある」というアウトプットや、「こんな経験をした」という情報発信とは、全く異なるように感じる。
何がしかのファクトという寄る辺はなく、頼るのはただ自らの内面のみ。
世界観。思考。前提。歴史。才能…フィクションではすべてがわかってしまう。
世のエンタメを産み出す人たちの、何とすごいことか、と痛感させられる。
アタマの空想の中では、人は空だって飛べる。
けれど、それをこの三次元の現実世界に降ろそうとした途端に、それは錆びて色褪せ、大したことなくて、ありふれたものに見えてしまう。
されど、この現実世界で求められるのは、空想の中で遊ぶことでも、他人の作品や人生を批評することでもなく、地に己の足を着けて何がしかを「地道に」「コツコツと」「積み上げを」「継続する」ことなのだ。
毎回毎回、頭の中の理想とのギャップに、己の才能に絶望しながら、晒したくもない己の内面の闇をまさぐりながら、積み重ねるしかない。
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結局のところ、自分に才能がないのが、嫌なのだ。
それは、今日まで応援してくださったり、あるいは自分では気づきもしなかった資質を認めてくださった方を、裏切ってしまうような気がするから。
自分の、これまでの経験を、人生を、否定されてしまうような気がするから。
それは、一見すると自分に自信がないように見えるが、実のところは傲慢なだけだ。
単にプライドが高くて、失敗したり批判されたりするのがイヤなだけなのだ。
笑えるくらい、他人軸の極致なのだろう。
それも仕方ない。
それが、今のわたし。
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それでも、書きたい。
ここに連れてきてくれた方に向けて。
書くことを与えてくれた両親に向けて。
いまは、そこにワクワクもなければ、喜びもない。
悶えるような怖さがあるだけだ。
ただ、書かなければ、私は私ではなくなるような気がする。