さて、断酒して348日目、11か月が過ぎたところだ。
もう1年になるのかと思うと、感慨深い。
手帳を見ると最後に飲んだのは2018年の11月上旬で、気の置けない方との会食で飲み過ぎて泥酔して、翌日は二日酔いで死んでいたようだ。
禁煙セラピーなどで「禁煙を決めたら、最後の煙草を思い切り味わって吸う」というような方法を見たことがあるが、あの時はそれが最後の飲酒になるとは思いもしていなかった。
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前回のエントリーで、「飲酒」も「断酒」も同じ動機からなのかもしれないと書いた。
断酒日記 【333日目】 ~飲酒も断酒も実は同じ動機から? - 大嵜 直人のブログ
心の奥底で疼く「寂しさ」を紛らわせるために「飲酒」をして、その「寂しさ」を別のベクトルに向けると、自分には飲んでいる時間などないという劣等感(すなわち、比較して劣っていると感じることで他人と「つながり」を求める)からくる「断酒」をしていたかもしれない、と。
その両方に気づいたときに、ようやくほんとうの意味で「飲む」か「飲まない」かを選択できる、というように。
あれから2週間ほど経っているが、いまのとことろ「飲まない」という選択を続けている。
いまは執筆に追われて飲む時間がない、ということもあるのだが、やはり飲むと頭が働かなくなるというのが最大の理由なのかもしれない。
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世の中には、飲みながら本を読めたり、書き物をしたり、飲酒をしながら何かすることができる人もいるのだが、経験則上、私はそうではなかった。
飲みながら本を読んでも、翌日読んだ箇所の記憶は全くなかったし、あるいは音楽や何かを聴いていてもぼんやりしてしまうし、まして書くことなどできなかった。
世の中にはそうしたりすることができる方もいて、羨ましいなと思うこともある。
けれども、いまはそうした羨ましいといった感情も当然あった上で、「断酒」を選んでいるように思う。
他人と比較してできないことを責めるのは、自己否定であり、
自分にできないことを仕方ないと諦めることは、自己受容である。
そう考えると、「断酒」を通してまた少し自己受容が進んだのだろうか。
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自分にできないことを、仕方ないと諦めること。
それはネガティブな意味での「甘え」や「怠け」、「逃げ」といったもの、また異なるものだ。
100メートルを10秒で走ることができる人を羨ましいとは思うが、自分がそれをできないことを責める必要は全くない。
その例は極端かもしれないけれども、もう少し細かく見ていくこと。
それって、自分にできることなの?と問いかけてみること。
限られた自分の身体、時間、お金を何に投下したいのか。
それは、同時に何に投下しないのか、ということを選択するということなのかもしれない。
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もうあと少しで断酒して1年。
内面ではいろんな変化がありつつ、続けることができた。
私が断酒したときにいろいろ参考した情報を久しぶりに見返していたが、その中で断酒して3か月~1年の間は「ときどき襲ってくる飲酒への誘惑と戦う時期」とあった。
それが1年を経過すると「公私ともに充実して忙しくなる時期」に入る、とも。
もうすぐ1年だが、確かにありがたいことに執筆なり忙しくなってきたようだ。
1年が経過したら、どんな景色が広がっているのか、楽しみにしたい。
とはいえ、こんな宝石箱を前にすると日本酒が恋しくなることも、やはりある。