さて、断酒922日目である。
おおよそ2年と半年。
そう聞くと、ずいぶんと長いこと続けてきたものだな、と感慨深くなる。
最近はもう断酒をしている感覚も薄れ、お酒というものは意識の遠いところに押しやられているようだ。
2年半前の心情や感覚など、なかなか覚えていないものだ。
2年半前のあの日。
霧のような小雨が降る近所の川の橋の上で、ふと浮かんだ断酒に従っていなかったら。
そんなことを、考えてしまう。
いまもまだ、飲酒していたのだろうか。
たまに、美味しい肴とのお酒を楽しんでいたのだろうか。
感染症禍で、自宅飲みの頻度が増えていたのだろうか。
まだ、二日酔いの辛さを味わっていたのだろうか。
まあ、考えても仕方ないことではあるけれど。
一つ言えるのは、そのときがちゃんと何かレールが切り替わった感覚がある、ということだ。
それは、いい方向/悪い方向という切替ではない。
断酒自体がいいことでも、悪いことでもないように。
健康にいいかと言えば、甘いものが増えたので必ずしもそうとも言えず。
美味しい料理に合うお酒を愉しむ時間が無くなったことは、残念だとも言える。
いい、悪い、というわけではなく。
ただ、行き先が変わった。そんな感覚がある。
それでも、あのとき断酒をしてよかったな、とは思う。
「よかった」というだけで、それ以上でも、それ以下でもないけれど。
ただ、それと同じくらいに。
おそらく、あのとき断酒をしなくても、「お酒をやめなくてよかった」と思っていただろうな、とも思う。
人は何かの岐路に立ったり、何かの判断を迫られると、「どちらにするか」という選択に頭を悩ませる。
理屈で考えるにせよ、直感で選ぶにせよ、コインを投げるにせよ、誰かに相談するにせよ、「どっちがいいか?」という基準で頭を悩ませる。
けれど、ほんとうのとこは。
どの選択肢を選ぶよりも、その選択をしたことに納得し、その選択を肯定することの方が、重要なような気がする。
VUCAの時代、不確実な時代と言われるように。
どれだけ考えたって、未来のことなんて分からないのだから。
だとするなら、私たちにできることといったら、過去の選択を肯定することしか、できないではないか。
「あぁ、あのとき、あの選択をしていて、ほんとうによかった」と。
その情感は、現在の自分自身を肯定することでしか生まれない。
いまの自分でよかった。
いまの自分がいい。
それは、選択肢に正解するとか、過去の自分よりも素晴らしくなったとか、そういったことではない。
いまの不十分で不完全で未完成で不出来な、この自分を肯定するのだ。
そうだとしても、わたしはわたしがいい。
そう思えた瞬間に、過去のすべての選択も出来事も、輝きを放ち始める。
幸せとは、そんな瞬間を指すのかもしれない。
そして、その輝きは、遠く離れた未来をも照らしだす。
川の流れを見ていると、時に分かれ、ときに合わさり。
上流では、急な流れもありながら、徐々に緩やかに流れていったり。
ときに濁流になりながら、ときに枯れそうになりながら。
それでも、必ず海へ流れついてゆく。
どんな道を通っても、最後には大河となり、大いなる海へと帰っていく。
どんな選択をしたとしても、行き着く先は同じ。
そう考えると、どんな選択をするかは、あまり大したことではないのかもしれない。
ただ、流れのままに。