さて、断酒357日目。
いよいよ区切りの一年まであと少しである。
先日、ライフワークカウンセラー&コーチの岩橋隆盛さんがブログで断酒について書いておられた。
その中の「とりあえず断酒を始めてみて、そして毎日飲まないことを選択し続けてきた」という箇所に、首が千切れんばかりに頷いた。
私も同様のスタンスで、これまで断酒を続けることができたからだ。
ちなみに私と岩橋さんは、断酒を始めた時期が近く、お酒についての想いや、お互いの断酒についての想いについての共感を、ブログに綴ったりしている。
私を含めて身近に断酒をした人を見ていると、何かを続けるためのマインドというのは、「一度決めたことを貫き通す、確固たる決意」のようなカタイものではなく、「常に選び続けること」というもののように思えるのだ。
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何かを決断して、それを続けようとするとき。
その決断は、心理学的には「コミットメント」と呼ばれる。
そのことに対して肚をくくって向き合う覚悟、というようなニュアンスだろうか。
断酒をする、何かの勉強を始める、ブログを毎日書く、この人を愛する…誰にでもいろんな決断があるけれども、それを続けるためには「何が何でも、決めたことを守り通す固い決意」のようなものが必要なように見える。
実際、そうしたものの方が「わかりやすい」し、何となくそう見える。
けれども、そうした決断は、往々にして簡単に破られてしまう。
「飲んではダメだ」、「遊んではダメだ」、「サボってはいけない」、「憎んではいけない」…そう思えば思うほど、それを抑えるのは難しくなるのは、誰でも経験したことがあるのではないだろうか。
脳は否定形を認識しないと言われるが、「〇〇はダメ」と考えると、〇〇のことしか考えられなくなり、なかなかその状態になってしまうと、頭の中からそれを追い出すことは難しい。
ということは、「〇〇しない」という決意をもっと強くすることは、全くもって逆効果になってしまうとも言える。
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何かを続けるために大切なのは、逆説的だけれども「飲んでもいい」、「勉強しなくてもいい」、「毎日書かなくてもいい」、「愛さなくてもいい」という許可を自分に下ろしてあげることではないだろうかと思う。
断酒を守れない、勉強が続けられない、毎日書けない、愛せない自分でも、認めるということ。
または、自分を鎖できつく縛るのではなく、自分に自由を与えてあげる、ということ。
それこそが、肚をくくる=コミットメントと呼ばれるものの正体なのかもしれない。
その上で、「どうしたい?」と、日々自分に問いかけることを続けること。
岩橋さんが書いておられるのは、恐らくそういうことであり、私もそのようにして今日まで来れた気がする。
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もちろん、「今日はどうしたい?」と自分の内面と対話をするなかで、「今日は何となく飲みたいなぁ」という日も当然あるだろう。
その声を聞いた上で、「じゃあ、飲んじゃおうか」なのか「それでも、止めておこう」なのかは、大きく違うように思う。
三歳児に「それはダメ!」と大きな声で無理矢理諭すと大惨事になるように、その声を聞かずに「絶対に、飲酒ダメ!」としていると、自分の内面の声を無視してしまうことになる。
そうして自分の声を無視することが重なると、気づかないうちに無気力や鬱になるか、その逆にどこかで爆発するか、になってしまうのだろう。
「うーん、そうだよな、飲みたいよな…その代わりに、甘いものじゃダメかい?それとも、どうしても飲みたいなら、しょうがないよな。飲んじゃう?」というように、日々自分の気持ち、感情を感じ続け、己との会話を続けること。
それこそが、コミットメントするということであり、自分を愛するこということなのだろう。
そう考えると、決して断酒をするという現実的な側面だけが、自分を愛することではないように思う。
それはあくまで結果であり、たとえ断酒が途絶えたとしても、それは自分を大切にしたと言えるのではないだろうか。
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コミットメントは、選び続けること。
それは、己の気持ちや感情を感じ続けるということ。
それはすなわち、自分の内面との対話を続けるということ。
それは、自分を愛する、ということ。
この一年近く、断酒はいろんなことを教えてくれている。
シャーリー・テンプル。
レモン・ライム・ソーダのベースに、赤いザクロを使った「グレナデン・シロップ」加えたカクテル。
ノンアルの旅に出なければ、このカクテルに出会うこともなかった。