時にふと、昔の記憶が甦ることがある。
よく聴いていた音楽を耳にしたり、以前に通っていた場所に足を向けたり、鼻腔をくすぐる香りが懐かしかったり、あるいは何か心に刻まれることが起こった季節がめぐってきたり、そのタイミングは様々だったりする。
そんなときに、あの頃の自分はどこへ行ってしまったのだろうと、よく考える。
必然のように見えて偶然で、偶然のように思えて必然の、いろんな選択の織りなりがあって、いまここで文章を書いている。
変わらない人や場所もあれば、一方で変わりゆくものもあって。
何がよくて、何が悪いか、というよりも、ただ時間だけが粛々と移ろっていく。
クリスマスイブに、昔を思い出していた。
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バックヤードですれ違う上司は、白衣から煙草の香りを漂わせていた。
あの野郎、このイブの開店前に一服していやがったと思うと、イラっとした。
デパートの洋菓子売場のクリスマスイブの開店前は、さながら戦場のようだ。
何か大きなものに突き動かされているように、皆が殺気立っている。
バックヤードの配置、冷蔵室の状況、各店舗の人員状況、ショーケースの中身、予約ケーキのお渡し会場の状況、徒列体制の確認…一服するほどの時間があれば、この開店前にやれることなど無限にあるはずだ。
こちらの殺気を悟ったのか、上司は「朝礼、行ってくるわ」と言って、そそくさと店内に入っていった。
怒りは、自分が禁じているルールが破られたときに湧き起こる。
そして多くの場合において、それは「ほんとは、自分もやりたいのに」と感じているのだとは、残念ながら当時の私は知らなかった。
関西人の、いい上司だった。
サボっているように見えて、いろいろな仕事を任せてくれていたおかげで、早くたくさんの仕事を覚えることができた。
いや、実際のところはサボっていたのかもしれないが。
けれど、判断を仰いだときに逃げることはしなかった。
えげつないくらいに、毛筆が上手かった。
反社会組織の強面の方々がご来店された際に、彼らの目の前で熨斗紙に筆で名入れをしたという逸話を持つくらいなのだから、肝が据わっていたのだろう。
それでも、丸い背をさらに丸めて、鉄扉を開けていくその上司の姿を後ろ目に見ながら、私は苛ついていた。
疲れていたのだろう。
食料品、中でも洋菓子売場の12月というのは、死地である。
お歳暮、クリスマス、年末、初商、バレンタイン、催事…すべてのイベントに絡むから、どうやったってしんどい。
元旦しか休みのない店では、日々何かが起こる。
張り詰めた糸を弛緩させる時間を取ることは、どうしても難しい。
ハムスターの回し車よろしく、次々に迫る納期だったり、歳時記だったりに追われて走っているうちに、疲弊していく。
自己肯定感が低く、犠牲からハードワークをしていた私には、残念ながら能動的に休むということは、遠い外国の奇異な風習のように思えた。
自分に自信がなければ、休むことは難しい。
それが、たとえ煙草を一服するほどの時間でも、である。
当時の私は、そんなことを考えることもなく、怒りを無理矢理に押し殺すことしかできなかったのだが。
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バタバタと追われるようにしていたら、いつの間にか開店直前になった。
休日のクリスマスイブは、朝から売場に多くの人の波が押し寄せる。
迎客と徒列の初期対応のため、店頭に出なければと、私はバックヤードを小走りに戻った。
台車を押す一人の中年の男性が、立ち尽くしていた。
見慣れた制服だが、着慣れていない感じからすると、どうやら現場応援に駆り出された営業らしいようだ。
もうすぐ開店することを知らせる音楽が流れていて、周りには誰もいなかった。
声を掛けると、冷蔵ストックの場所が分からない、と。
私は逡巡した。
ほんの数秒だったように思うが、ずいぶんとながい時間迷ったような気もする。
私は早足で彼をエレベーターホールまで先導しながら、地下2階の冷蔵庫の場所を説明して別れた。
不安で強張っていた顔に、少しだけ赤みが差したような気がした。
暴力的なまでに忙しいクリスマスイブ当日に、不安だったのは、彼だったのか。
それとも、私だったのか。
急いで店頭に戻ると、もう人の波が通路を埋め尽くしていた。
何処に行っていたんだよ、とドヤされながら、私は喧噪の中で最後尾看板を持って走った。
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確か、イブが週末に当たったこともあったのだろう。
バッケンレコードを更新するくらい、よく売れた。
そんな長い一日がようやく終わり、少しだけと先輩に誘われて居酒屋の席に座ったのは、日付をまたいでいたように思う。
極限まで忙しい一日が終わり、まだ翌日からも年末商戦に向けて走らないといけないのだから、早く帰ればいいものだが、不思議なものだ。
二人とも、長い一日の疲労から食欲もほとんどなく、ツマミを軽く突きながら、ビールを舐めるようにして喉を潤していた。
それにしても、クリスマスイブの夜に、男二人で居酒屋で暴力的に忙しかった今日の感想戦とは、どれだけ仕事に癒着していたのだろうかと思う。
不意に、その先輩がぽつりと言った。
「見捨てなかったよね」
何のことか、分からなかった。
「開店前。あの営業さん、見捨てて行かなかった」
あぁ、見られていたのか。
「選択肢としては疑問符が付くけれど」
おそらく、そうだろう。
誰かに案内を頼むなり、別の方法があったのだろう。
自分がやれることと、自分しかやれないことは、違う。
そして、自分がやれることをすることは、必ずしも周りの人のためにならない。
分かっちゃいるけど、自分がやれることをしている安心感を手放すのは、なかなか難しい。
いや、そもそもが自分しかやれないことは何なのか、それを理解する事もまた、難しいのだが。
「まあでも、それがよかったんじゃないかな。だからこそ、あれだけ売れたのかもしれない」
いや、売れたのは曜日回りもよかったですし。
「いや、そうじゃない。結局のところ、どこまでタマを積むかはテナントとの信頼関係でしかない。一緒に売ってくれる、という信頼感。最後のところは、そこかな。それは、積み重ねてきたものだよ。よくやったんじゃないかな」
常日ごろから理詰めでものごとを考える、その先輩の口から意外な言葉を聞いた気がして、曖昧な返事しかできなかった。
いや、褒められていたのを、受け取れなかったのだろう。
私は、まだ足りなくて全然出来ないんです、と。
疲れからかすぐに酔いが回ってきて、早々に店を引き上げた。
大通りに出ても、タクシーはなかなか捕まらなかった。
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あの頃の私は、どこへ行ったのだろう。
まだ、地下2階の大きな冷蔵室で忙しく働いているような気もする。
クリスマスイブに、そんなことを思い出す。
ずっと私には夢がなかったし、これといって希望もなかった。
けれど、あの頃の私は、いま私がこうして文章を書いていることを想像もしていなかった。
結局のところ、思い通りになることなど何もなく、小さな私がする想像以上の出来事が、起こり続けるのだろう。
青い鳥も、魔法の杖も、幸せの靴も、無い。
さればこそ、いまこうして書いていることは、奇跡そのもののようでもある。