ブログ開始一周年に際しまして、旧い友人の方から電報を頂きました。
かわいいミニオン電報で、メッセージの入ったカードにプリザーブドフラワーとタオルがついた豪華なものでした。
娘がミニオンのタオルを気に入ったようで、愛用のタオルになりそうです。
この友人の方は昔のお仕事でのご縁なのですが、SNSなどではつながっていなくて、暑中見舞いなどのお手紙で近況をお知らせするつながりでしたが、こうしてお祝いを頂けるとは、ありがたい限りです。
私は、知り合いのお店の開店祝い、周年祝い、誕生日のお祝いなど、電報を送ることはままありますが、こうして自分がもらうと嬉しいものです。
メールやSNSといったつーつは瞬時につながることができて便利なのですが、それらが便利であればあるほど、手紙や電報といったアナログで時間のかかるツールが「言葉を贈る」という性質を相対的に持つようになってきているように感じます。
「言葉を贈る」といえば、レターポットも同じ志向を持っているようです。
レターポットについては、こちらをどうぞ。
「レターポット」の革新性について考えてみる - 大嵜 直人のブログ
究極のコミュニケーションとは ~キングコング西野さんの「レターポット」に寄せて - 大嵜 直人のブログ
このブログを書き始めたとき、まさかこのような形で自分が電報を頂くことは想像もできませんでした。
お心遣い、ありがたく頂戴いたしました。
さて、新聞離れや活字離れといったことが言われて久しいのですが、現代に生きる私たちはこれまでよりも「言葉」に触れる機会や時間はずっと多いように思います。
言わずもがな、それは私たちの生活に深く浸透してしまったパソコンやスマートフォンによるインターネット、あるいはSNS、メールなどのコミュニケーションの手段に触れる時間は、すべて「言葉」に触れる時間と言えるからです。
ニュースなどの公的な言語から、メールやLINEといった私的な言語、そしてSNSやこのブログと言ったその中間的な言語まで、さまざまな言語に私たちは日々触れています。
それだけ「言葉」があふれている世の中において、「言葉」の持つ性質が変わってきているように思います。
以前であれば、お金や時間、労力をかけないと得られなかった「言葉」(「情報」と言い換えてもいいのかもしれません)が、今では簡単に手に入るようになった。
お金を払わないと聞けなかった内容の「言葉」が、今ではその気になれば調べて得られる世の中になってきています。
そうしたときに、「言葉」そのものの力というのは相対的に低下せざるを得ません。
かつては限られた人しか聞けなかった、イエスの説いた「山上の垂訓」や、エイブラハム・リンカーンの「ゲティスバーグ演説」、あるいはキング牧師の「I have a Dream」のスピーチ。
そうした偉人たちの「言葉」のみならずも、多くの「言葉」に簡単に触れられるようになったからです。
そうなると、よく言われることですが「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が重要な世の中になってきます。
同じことを言っている人は、それこそ探せばたくさん見つかるでしょう。
「言葉」に力を持たせようとしたときに、それは文章力でも発信する内容でも何でもなくて、ひとえにそれを発する人の「人間力」にかかっている世の中になってきた、と言えるのかもしれません。
その「言葉」を発する人が、常日頃どんなことを考えて、日々どんな生きざまを見せているのか。
それが、「言葉」に力を宿すのだと思います。
逆説的ですが、そうした生きざまを背負った「言葉」は、必ず人を惹きつけます。
迷う背中を押す力を与えるでしょうし、
あるいは傷ついた心を癒し、
ときには乾いた砂に水が染み込むように心に深く人の心に響き、
そして人が道に迷ったときに足元を照らすほのかな灯りになることができます。
私自身が、そうでしたから。
私がここで書き続けるきっかけとなったブログ - 大嵜 直人のブログ
私は「言葉」の力を信じています。
それは、自分の発する「言葉」を信じていると同じことです。
それはつまり、どこまでも「自分」を信じぬく、という信仰に近いものなのでしょう。
そんな「言葉」の力に想いを寄せたくなる、電報でした。
重ね重ね、お心遣いに感謝申しあげます。
ありがとうございました。