子どもが大きくなるにつれて、問題もまた大きくなるとよく言われる。
それは半分真実で、半分真実ではない。
子どもが大きくなるにしたがって、問題が大きくなるのではなくて、親自身の深い内面を癒すことが求められるだけのように思う。
結局のところ、子どもが見せてくれるのは親自身の内面に過ぎない。
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正月三が日明けでも、まだ街は弛緩した空気が流れていた。
ちょうど三が日明けが週末に当たる曜日周りだったからかもしれない。
野球熱が再燃した息子と、それについて来ると言った娘と三人で、近所の公園を訪れた。
よく晴れた、冬晴れの昼下がりだった。
公園のグラウンドでは、すでに先客が何組かキャッチボールやノックをしていた。
野球をする子どもの減少が言われて久しいが、近所ではあまりサッカーをしている親子連れを見かけない。
父親世代が野球が人気の世代だからだろうか。
息子と同じくらいの背丈の少年が、父親らしき男性の投げるボールを打っていた。
結構離れた距離から、その男性は上からボールを投げていた。
羨ましそうに眺めていた息子は、それを真似して上から投げたボールを打ちたいと言う。
今までは至近距離から下手投げで「ふわっ」と投げたボールを打っていたのだが、なかなかその練習はハードルが高い。
息子にとっても、私にとっても。
いつものやり方がいいんじゃないかと説得しようとするが、どうしてもやりたいと主張するので、いつもの倍くらいの距離から、上で投げたボールを打つ練習を始めた。
案の定、私が上から投げるボールのコントロールも安定せず、またこれまでとは違うボールのスピードに、息子のバットは幾度となく空を切った。
それでも、いつもの悪態をつくことなく、黙々とバットを振る息子。
どれくらい投げただろうか、息子のバットから会心の当たりが出た。
ライト方向に大きなフライが飛んで行った。
今までにないバットの手応えに、目を丸くする息子。
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もっとだ!
と意気込む息子だが、それまで傍観していた娘が、
自分もやりたい
と。
それじゃあ順番にやろうか、という提案は即座に息子に却下され、バットを取り合って揉める二人。
どうしても打ちたい息子と、
順番にやればいいと言う娘。
なんでついてきたんだ!
と言う息子と、
なんでやらせてくれないの?
と言う娘。
野球どころではなくなり、どちらも収まりがつかなくなる。
理は娘の方にあるのろうが、理や正しさで双方が納得して解決するなら、誰も子育てなり人間関係で悩むことなどないのだろう。
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やがて憤慨した息子は、
もう家に帰る!
と怒って公園の入り口にひとり歩き始めた。
ひとつが手に入らないのなら、全部要らない。
私もよくやる自爆テロだ。
けれど、違う。
本音はそこじゃない。
こうしたときに必要なのは、「野球をする」という「結果」ではない。
そこに至る心情への「共感」であり、「そこに居る」ことだ。
息子の手を引き、久しぶりに大きくなったその身体を抱っこする。
暴れる力も、随分と力強くなった。
はなせ、いえにかえるんだ
違う、本音はそれじゃない。
だいたい、おとうはいつもむすめのみかたじゃないか!
おんなのこのほうが、だいじなんでしょ!
違うだろう。
本音は、
僕はどうせ愛されない
じゃない。
やきゅうがしたかったのに
それだ。
それだよな。
そうだよな、思い切り、ボールを打って、捕って、野球がしたかったんだよな。
おとうと一緒に、野球がしたかったんだよな。
その言葉を聞くと、不思議と息子の暴れる力が緩んだ。
人は、本音に触れると、緩む。
それを見ていた娘が、
いいよ。わたし、遊具であそんでくるからー
と言ってバットを離した。
ありがたい、と思った刹那、言いようのない違和感を感じた。
これは、寂しさなのか。
それとも、何なのか。
あぁ、今日の本丸は、こっちだったか。
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息子をリリースして、すぐに娘を抱きかかえる。
何事かと驚く娘。
いつも、
そうやってがまんして、
ずっとおとうさんとおかあさんを、
たすけようとしてくれてたんだね。
ありがとうね。
いままで、ありがとう。
ずいぶんと、
おとうさんもおかあさんも、
たすかってきたよ。
でもね、
やりたいことがあったら、
やりたいっていってもいいんだよ。
それで、
だれかがおこったりしても、
それはあなたにはかんけいないよ。
いままで、
ずっと、
ありがとうね。
やりたいことに一途な息子と、いつも周りの空気を読んで、それに合わせてくれる娘。
バランスの法則なのだろうが、いつもいつも自分を犠牲にすることはない。
たまにはやりたいことをやりたいと言えばいい。
それで息子や誰かが怒ったりしても、それは単に結果に過ぎないのだ。
娘の瞳が、潤んだ。
暖かなものが、流れた気がした。
息子はまた放っておかれたと憤慨し、一人で歩いていってしまったが、娘とゆっくりと話をしてから家まで追いかけていった。
家にあったヨーグレットで、たまに入っている「ニコニコ柄の粒」が出て、息子は喜んだ。
娘も、笑っていた。
結局、自転車でまた公園に戻り、娘はやっぱりブランコをしてくると言って、また息子のバッティング練習は続いた。
10球ほどで、息子はやっぱり代わると言って、娘を呼びに行った。
娘にボールを投げていたら、いつの間にか夕暮れになっていた。
冬の乾いた陽射しが、グラウンドを照らしていた。
いつのまにか、誰もいなくなっていた。
子どもと一緒にいると、いろんな日がある。
この日のような一日もあれば、クシャクシャに揉めたままカオスになる一日もある。
それがいいも悪いもなく。
結局のところ、子どもは親自身の内面の声を聴かせてくれているに過ぎない。
それを受け止めるだけの心身が、親の側に整っているか。
ただ、それだけなのだろう。
日が傾いて薄暗くなった帰り道、そんなことを想う。
おとうさんと、
すきなだけやきゅうがしたかったんだね。
みんなをたすけるために、
やりたいことを、
がまんしてきたんだね。
さて、息子と娘と話した言葉たちは、誰に向けて言いたかった言葉だろう。
ふと、黙々と一人で壁に向かってボールを投げていたあどけない少年が、瞼の裏に映った。
あれは、私だったか。
子どもが大きくなるにつれて、問題もまた大きくなると言われる。
一面では正しいのだろうが、それは全てではない。
正確には、子どもは大きくなるにつれて、親自身のもっと深い内面を見せてくれようになるのだと感じる。
ただ単に、子どもは鏡に過ぎない。
それは、子どもに限らず、自分の周りの他人すべてに言えることではあるが。