雨が、止んだ。
明け方には降りしきるその音で目覚めたが、この時期の天気は、よく移り変わる。
雲の隙間から、夏の日差しも見え始めたようだ。
蝉が、歌い始めた。
シャーシャーシャーシャーと鳴くあの声は、クマゼミだろうか。
敏感に反応した息子は、胸を躍らせ、早く蝉捕りにいくぞ!と急き立てる。
少しゆっくりしたい休日の午前中だが、私の思惑とは関係なく物事が進んでいく。
雲の合間から除く日差しは、もう夏のそれだった。
来週には、梅雨も明けるだろうか。
コロナ禍で休校もあった小学校の一学期も、来週早々には終わる。
息子の頭は、もう夏休み一色のようだ。
いつもの川沿いの桜並木を歩く。
まだ出始めだからだろうか、鳴き声は上方から聞こえるものの、その姿は見えない。
ずっと木の枝を見上げながら歩くと、首と肩が岩のように固まってくる。
天井画を描く中世の画家も、こんな痛みと戦っていたのだろうか。
やがて、一匹の姿を分かれた枝の先に見つける。
おとう、とって!
いや、あれは高いぞ…
いいから、はやく!
急き立てられてタモを伸ばすも、その先よりも高い位置に蝉はいる。
意を決して、地を蹴る。
空中で、タモを大きく振る。
ジジジ…という声と冷たいしぶきを残して、蝉は飛び立っていった。
逃した。
息子は癇癪を起こし、私を責め立てる。
なんで逃がしたんだ!そもそもおとうが家を出るのがおそいから、セミがどっかににげていっちゃったんじゃないか!おとうがわるい!ぜったいにつかまえるまでかえらないからな!
………
いつもなら笑って過ごせるその癇癪も、今日はダメだった。
お前な、朝5時に叩き起こしてギャーギャー騒いで、クソ暑いなか蝉捕りにつきあってるのに、なんだその言い草は!ふざけるな!もう、二度と蝉捕りには付き合ってあげない!クワガタ捕りにも連れて行ってやらない!
と言いたくなったが、無言で広がる木の枝を見上げて歩く。
中世の画家も、せっかく描いた天井画に対して、ヌケヌケと「そうじゃないよ、こうだよ」とぬかすパトロンに、そんな思いを抱いたのだろうか。
無言の時間が続く。
おとうは、いつもきげんがわるくなるとだまる。
ぼそりと、息子がつぶやく。
ああ、そうだとも。相変わらずの5歳児だからな。でも、誰のせいだよ、まったく。
相変わらず、蝉の姿は見当たらない。
=
痛み、怒り、悲しみ、寂しさ…そうしたネガティブな感情は、実のところ外界の何かとは全く関係がない。
それを怒りや悲しみへと変換しているのは、自分自身でしかない。
外界の何がしかは、そのスイッチを押しただけに過ぎない。
息子に対する、このどろりとした嫌な感情は、なんだろう。
深く息を吐き、蝉を探して見上げる。
風が吹き、木々の葉がざわめいた。
夏であることを、忘れそうな、心地よい風。
あのころの風に、似ていた。
いまよりもだいぶ夏が涼しかった、あのころ。
夏休みは、祖母の家にいた。
実家とは近かったものの、違う学区にあったため、近くで遊ぶ友だちも、あまりいなかった気がする。
いつも、市民会館横の公園で、一人タモを振っていた。
蝉と、トンボと、蝶と、バッタと。
小さな虫たちが、友だちだった。
父と、昆虫採集に行った記憶は、ほとんどない。
幼いころの記憶が異常に薄い私のこと、覚えていないだけかもしれないが。
=
嫉妬。
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、気分が悪くなった。
小さな我が子に、嫉妬している?
不惑も近くなって?
どうしようもなく恥ずかしいが、どうやらそうらしい。
幼い私が、切々と訴えるのだ。
ぼくも、おとうさんといっしょに、たくさんあそびたかった。
と。
いや、訴えることすらできずに、こちらを見てくるのだ。
口に出すことすらできなかった、その想い。
それを、目の前の小さな我が子が叶えることに、嫉妬している。
父が、私に無関心だったわけでもない。
時代が規定する仕事との関わり方、そして家族との関わり方というものも、あるだろう。
父は、父なりの愛し方で、私を愛してくれた。
ただ、それだけだ。
=
我が子に嫉妬している。
滑稽ですらある、その想い。
けれど、それに気づくと、こころは楽になる。
感情は、いつだって天邪鬼だ。
抑えると爆発し、感じると抜けていく。
無言のまま、木漏れ日の降り注ぐ空を見上げて、蝉の姿を探す。
いつの間にか、アブラゼミの声も聞こえてきたようだった。
いたぞ!あそこだ!
声を、上げる息子。
お目当てのクマゼミとアブラゼミ、2匹の入った虫かごをしげしげと眺める息子。
おとう、ありがとう。
その無邪気さは、ズルい。
幼い私の嫉妬も、また寂しさも、どこかへ霧散していくよう。
見上げれば、透明感のある青の空。
週明けにもう一雨くらい来たら、梅雨明けだろう。