雨が上がったので、走りに出る。
濡れた路面に気を付けながら、ゆっくりとしたペースで走るも、どうも身体が重い。
頭の中の感覚との違いに戸惑い、なぜだろう。
体調が悪いわけではなく、睡眠不足でもなく、怪我をしているわけでもなく。
少し走ってから、考えるのをやめた。
それが、いまの自分の状態なのだ。
ランニングにせよ、ストレッチにせよ、自分のいま現在の状態が出る。
それをどうこうとせず、ただそうなのだ、と認識するだけに留めること。
「不調こそ、我が実力」
ある麻雀の達人の、そんな言葉を思い出す。
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海に、音に、波があるように。
月に、満ち欠けがあるように。
季節が、めぐるように。
好調なときもあれば、不調なときもある。
その日その日でもそうだし、月や年単位にもなる波もあろう。
ときにそれは、厄年や天中殺などと呼ばれたりもするのだろう。
残念ながら、私はそういったものが見通せる力はないのだが、それでもスポーツの試合を見ていても、空の色の移り変わりを見ていても、月の満ち欠けを見ていても、やはり波というものはあるのだろう。
そして、とかく人は好調なときは自分の実力と思い、不調なときは不運や不遇を嘆く。
それは、手柄は自分のものとし、失敗は部下のものにするダメ上司と似ているのかもしれない。
「不調こそ、我が実力」
そうではなくて、うまくいかないとき、思うようにままならぬとき、結果が出ないときこそ、自分の実力だと捉えてみる。
うまくいっているときは、有形無形の、誰かの助けや、あるいは時代や運、神さまなんかに応援されているだけなのだ、と。
そうすることで、誰かのせい、時代や社会のせい、運のせい、いろんなもののせいにしなくて済む。
全然思ったようにいかない。
でも、そもそもこの状態が、本来の私だとしたら、どうしていったらいいのだろう?
そうやって、どんなときでも、自分という主体性をもって考えることができる。
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それは、自分の力を必要以上に低く見積もる、自己卑下とはまた別の話だ。
自分を認め、自分を愛することの一丁目一番地は、「いま」の自分を肯定することにある。
ただ、自分の「いま」を見つめること。
それを、正誤善悪で判断せず、ただ受け容れること。
それが、自分を愛する上で、最も大切だ。
そして、「いま」の自分が、自分にとって最低最悪に見えるとしたら。
その自分の最も深い闇を、自分が愛し、許せたとき。
それは、最も尊い自己肯定となる。
それは、自分の力を不当に低く見積ったり、変に卑下することとは、全く別の話だ。
「不調こそ、我が実力」
その言葉は、最も深い自己肯定と結びついているように思う。
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不調でどうにもならないときこそ、我が実力。
絶対に受け入れられない自分の闇こそが、他人からすれば大きな魅力。
思うようにままならぬときこそ、大事なとき。
たしかに、いつも9巡目にこんな手をアガれるなら、誰も苦労はしない。