大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

子どもの自己肯定感を育む、「オウム返し」。

子どもとのコミュニケーションの中で、彼らの言うことをまず「オウム返し」することが、子どもの自己肯定感を育むのではないか、と最近つとに感じる。

そして、それは子どもに限らず、全てのコミュニケーションにおいてとても有効な方法論のように思う。

全て、というのは、自分自身との対話も含まれるのだが。

週末に、連日の甲子園に影響された息子と、公園でキャッチボールをしてきた。

折しもその日は高温注意報が出ており、外気温を見ると38℃。

さすがに公園で遊ぶ子どもの姿もまばらで、熱中症に注意してこまめに水分を補給しながらの運動になったが、さすがに1時間も炎天下にいると、頭がウニになってくる。

そのうち、思考回路は働かず、会話をするのも面倒になってきた。

捕りやすいように、下からふわっとボールを投げるも、なかなかうまくキャッチできない息子は、何回かのパスボールの後、キレ気味に、

「おとうの球がたかい!おとう、ヘタクソ!」

と抗議する。

普段なら、「いや、だから捕れるように練習してるんだろ?」とか「うるせー、そんなこと言うなら、もうやんねーぞ!」とか、まあギャーギャー言い合いになるのだが、この日は違った。

ぎらつく太陽の光とサウナのような気温に、どうにも頭が働かず、

「そうか、球が高いのか。おとうはヘタクソだな」

とオウム返しをするのが精いっぱいだった。

すると、不思議なことに息子は満ち足りた顔をして、

「もうちょっと、ひくくなげて」

と神妙に言ってくるではないか。私も、

「ああ、わかったよ。ごめんな」

と言って、黙々とボールを投げる時間が続いた。

うまくグローブにボールが入ったとき、息子は驚きとともに満面の笑みを浮かべた。 

キャッチボールをしながら、コミュニケーションの本質について、教えられた気がした。

気付けば、日が少し傾いていた。

子どもと接していると、ついつい「転ばぬ先の杖」を渡してしまいそうになる。

「あの子、あのままだと転んでしまいそう。転んだら、かわいそうだ」と。

そして、ついつい転ぶ前に手を差し出して、危険や失敗を回避してしまう。

もちろん、誰も我が子が転んだり、痛がったりすることを喜んで見たくはないだろし、道路に飛び出したり、あるいはストーブやコンロで火傷しそうになったり、命の危険を回避しようとするのは当たり前だ。

けれども「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ではないが、それも度を過ぎると、子どもの「生きる力」を奪ってしまう。

子どもの人生において、大切なのは「転ばないこと」ではなくて、「転んでも起き上がれること」であるはずだ。

何度転んでも大丈夫だし、

痛かったら助けを求めればいいし、

必ず助けてくれる人が周りにいる。

それを信じていなければ、「誰よりも早く走る方法」「疲れずに長距離を歩く方法」をどれだけ知っていたところで、地雷原に放り出されたような緊張状態でいつも過ごさなければなくなるのだろう。

そんな状態では、どんな方法論もライフハックもハウツーも、役に立たないではないか。

子どもとのコミュニケーションにおいて、私はなにかを「伝えよう」「教えよう」「正そう」としてしまいがちになる。

もちろんそれは、私の自分自身の経験から、子どもに対して自分の成功体験を伝えたり、あるいは私自身が経験したネガティブな経験をさせたくないための愛からの行動なのだが、度が過ぎると子どもの自己肯定感を下げてしまう。

「教える」「伝える」「正そう」とするコミュニケーションは、ときに

「いまのままのあなたでは、愛されないよ」

というニュアンスが伝わってしまうからだ。

なにがしかの方法論や、テクニックや技術は、他の誰からでも学べる。

ことによると、今の時代はスマホ1台を持たせておけば、それで十分かもしれない。

子どもの自尊心を育み、自己肯定感を高めるために、親ができることは何だろうと考えたときに、会話の中で「オウム返し」をすることは、とても有効なコミュニケーションなのかもしれない。

ああ、〇〇と思ったんだね。

〇〇なんだね。

そうか、〇〇だったのか。

その〇〇に対して、「いや、そうじゃないよ」「それは、じつはこれこれこういうことなんだよ」「それはいけないよ」と言いたくなるのを、一回肚の底に収めて、オウム返しをする。

不思議なことに、そうすると子どもは満ち足りたような表情をする。

さらに不思議なことに、その表情を見ていると、先ほどまで言いたかった「そうじゃねえよ」という言葉が、どこかへ霧散していくことが多い。

不思議なのだが。

結局のところ、子どもの自己肯定感は、親にどれだけ受容されているか、という一点に尽きる。

それによって、世界は安全なものなのか、それとも常に怯えていないといけない危険な世界なのか、子どもの観る世界は大きく変わる。

そして、親が我が子を受け入れることができるかどうか、というのは親が自分自身をどれだけ受け入れ、許し、愛せているか、に尽きる。

そのためには、自分の内なる心の声を、素直に「オウム返し」することが、結局巡り巡って子どものため、世界のためになるのかもしれない。

ああ、〇〇と思ったんだね。

〇〇なんだね。

そうか、〇〇だったのか。

その一つ一つの積み重ねが、自分を受け入れ、許し、愛することになる。

自分自身が、世界で一番自分に対して厳しい扱いをしてしまうのが、人という存在だから。

そうして自分で自分を満たしていった人から、子どもを、周りの他人を、そして世界を愛せるようになる。

大丈夫、世界は優しいから、と。

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38℃の中の運動で、思考回路がショートした図。 

それにしても、暑かった。