痛み、というものは意識を「いまこの瞬間」に強烈に引き戻してくれる。
それはある意味で与えられたギフトなのだが、実のところ、痛みを感じる瞬間というのは、大丈夫なのだ。
その瞬間は、何も起きていない。
ただ、在る、ということを知るだけだ。
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久しぶりにベッドの足に、自分の足の小指を思い切りぶつけた。
文字通り悶絶しながら、小指を抑える。
これが派手に真っ赤になったり、パンパンに腫れたり、分かりやすいビジュアルの変化があるならば、思い切り騒げるのだが。
テクノロジーの進化だなんだと言いながら、人類がこの痛みから解放されるときはあるのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、うずくまる。
その瞬間、この世界には痛みしかないように感じる。
その刹那ごとに、怒涛のように寄せては引いていく痛みを堪えて、私は呻き声をあげる。
「痛み」というのは、最も手っ取り早く「いま」を感じることができるシステムなのかもしれない。
そして、「いま」を感じることは、最も偉大なる癒しでもある。
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それは、身体的な痛みのことだけだろうか?
そうではないだろうと思う。
失恋をする、病を患う、我が子が怪我をする、いじめに遭う、あるいは大切な人と別れる…
そうした痛みは、それまでどこかぼんやりとしていた世界を、大きく変える。
痛みと絶望と諦めと恨みつらみの海の底で、ただあるがままの世界に触れる瞬間に出逢う。
それを感じる自分自身が、世界に溶けていく。
ひとつ大きく息を吸い、胸のふくらみを感じて、ゆっくりと息を吐く。
いま、この瞬間は、大丈夫なのだ。
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は。それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。
母が亡くなった晩、電話をもらった私は、セーターを持って家の後ろの丘を登っていた。雪のように白い大きな月が、椰子の木ごしに昇っていた。その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。母の死を振り返ると、あの雪のように白い月を思い出す。
「ずっとやりたかったことをやりなさい」ジュリア・キャメロン著(サンマーク出版、原題:The Artist's Way)より
布団の中にいても、仕事場にいても、電車の中にいても、車の中にいても、お風呂の中にいても、いつでもそこに「ある」。
ただ、そこにあるだけ。
それは、どこへも行かない。
何も起きていない。
そこでは、何も起きていない。
ただただ、揺蕩い、凪いで、安らいでいる。
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痛みの真っ最中にいるとき、ふとそうした「何も起きていない」自分を見つけることがある。
ぶつけた小指に悶絶しながら、のたうち回りそうになりながら、それでもそんな自分を「演技している俳優を見る」ように見つめる自分が、確かに、いる。
絶望的な想いに胸が張り裂けそうになりながら、肚の底で蠢く激情の渦に呑まれそうになりながら、それでもそんな自分を「どこか滑稽に」見つめる自分が、いる。
なぜなら、何も起きていないから。
その瞬間は、息を吸い、息を吐いている。
わたしは、生きている。
わたしは、大丈夫。
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何も起きていない。
ただ、あるがまま。
そこに意味もなにもなく、価値もなく、正誤善悪優劣聖俗もなく。
それでも、ただ、在る。
それは、自分という存在への、根源的な肯定であり、安心感とでも呼ぶものなのかもしれないし、あるいは愛と呼ぶのか、正覚と呼ぶのか、何でもいいのだろう。
いま、この瞬間は何も起きていない。
いまこの瞬間だけは、大丈夫なのだ。