あれは小学生の高学年の頃だっただろうか。
母親と二人で山を登ったことがあった。
山頂と思わしき、見晴らしのいい場所で撮った写真が残っている。
その後、不惑も近くなって母の死と向き合う中で、どの山だったのか知りたくなり、それと思わしき山をいくつか登った。
しかし、その写真と同じ風景の場所はまだ見つかっていない。
あれは、どの山だったのだろう。
それは分からない。
けれど、あのときの登山は、行きたい場所に自分を連れていくという、一つの癒しの過程だったのかもしれない。
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時に、行きたかった場所を、訪れる。
訪れた瞬間は、すぐに過ぎ去っていき、それは訪れた記憶に変わっていく。
その記憶も、いつかは忘れてしまうのかもしれない。
それでも、訪れた事実は消えない。
それは事実が消えないというよりも、その場所にそのまま在り続けるようなものかもしれない。
あの名も分からない山の山頂で、まだ幼いたれ目の私が、母と遊んでいるように。
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時が過去から未来へと流れていく、というのはよくできた錯覚のようなものかもしれない。
それは、瞬間と永遠との関係に似ている。
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かつてニーチェは、その思想の根幹に「永劫回帰」という概念を置いた。
キリスト教の説く来世への救済とその反面の現世の否定、いまの生を来世への審判という捻じ曲げられた基準による否定。
あるいは、当時蔓延しつつあった、この世界のすべては無意味であり、生きることに価値などないとするペシミズムやニヒリズムといった「生の否定」を、彼は深く憂いていた。
いまある生への、絶対的な肯定。
神への期待でも、無価値でもなく、いまそこにある生を肯定すること。
そのために、彼は、
質量保存の法則が働き、かつ無限の時間の中では、いまこの瞬間が、何度も繰り返し訪れる。もしそうだとするならば、いまこの瞬間を肯定できるのだろうか?
という思考実験を課す。
その中で行きついたのが、かの有名な
これが人生か!
ならば、もう一度!
という生への絶対的な肯定だった。
無限の時間の中で生きることを強いられることは、考えようによっては強い厭世観をもたらすが、ニーチェはそれを肯定すべきものとして捉えた。
来世への期待でも、生への絶望でもなく。
いまある生を、そのまま肯定せよ、と。
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瞬間の積み重ねは、永遠なのだろうか。
それは時間の流れと同様に、どうも疑わしい。
そこにあるのは、瞬間のみであり、その延長線上に永遠があるのではない。
いまある瞬間、それが永遠のようにも思える。
あの日、あの場所を訪れた私は、いまもそこにいる。