朝から曇ったり、にわか雨が降ったりと、梅雨の終わり際の不安定な空模様だった。
夕方から少し晴れ間が見えてきたので、夕食後に軽く走りに行こうとしたところ、息子がついてくると言う。
めずらしいこともあるものだと思いながら玄関の扉を開けると、微かにジジジジ…と声が聞こえた。
蝉だ。
その声を、息子も聞いたのだろう。
タモを持っていくんだ!と慌てて靴を履いて駆けだしていく。
しかし、物置から一年ぶりに引っ張り出したタモは、柄の部分とアミの部分が取れていた。仕方なくガムテープで補修していると、息子から怒られ、急かされる。まったく、そのせっかちさは誰に似たんだ。
ガムテープの上にガムテープは貼れないの!とドヤされながら、何とかタモを使える形にする。
いつもの川沿いの道。
湿気をたっぷりと含んだ、熱風のような空気がまとわりつく。もうすでにシャワーを浴びたくなってくる。時に温風至(あつかぜいたる)、熱気をともなった風が吹く夏本番の時候が、いまなのだ。
夏を迎えてその生命力を滾らせるような、桜並木。
夏の夕暮れに、その緑が映える。
しかし、玄関を出たときに聞いたあの声はどこへやら、聞こえなくなってしまった。
おまけに、私は耳鳴り持ちなので、なかなか聞き取りづらい。
「聞こえないなぁ」
息子の耳にも、蝉の声は聞こえないようだった。
仕方なく、聴覚ではなく視覚を使った探索に切り替える。
身にまとわりつく蚊を払いながら、桜並木を見上げて歩く。
「鳴かないおメスがいるかもしれないから、ちゃんとさがすんだぞ」
司令官の厳しいお達しをもとに、桜並木を見上げる。
蟻が樹液のまわりに行列を作っていたと思うと、ぬらぬらとナメクジが這っていたりして、思わず目を背ける。
黒々として、どっしりとした木の幹。
暑さにも負けず、そこにいる。
ただ、そのことに妙に心が惹かれる。
足元には、小さな白い花が。ハルジオンだろうか。
夏には白が、よく似あう。
「また花なんか撮ってる!花じゃなくてセミをみつけるんだ!」
司令官に見つかり、大目玉をいただいてしまう。蝉取り業も楽じゃない。
微かに、またジジジジ…という声を聞いた気がした。
梅雨明けもまだだが、そろそろ鳴き始める時期なのだろうか。
それにしても、不思議な生き物だ。
ほんの短い夏の間だけ、その命の限りを尽くして、声を震わせる。
どこか、その饗宴とでも呼べそうな、その合唱は、夏と生命の儚さを想起させてくれる。
幼いころ、あの市民会館の横の公園で。いまと同じ桜の木の下で。
一人、無心にタモを振るっていた、あの日。
捕まえても飼えない蝉を、なぜあんなにも毎日毎日、懸命に追っかけていたのだろう。
捕まえてはリリースして。捕まえてはリリースして。
そんな不毛な作業に、なぜあんなにも夢中になっていたのだろう。
意味など、なかったのかもしれない。
ただ、そうしたかっただけだ。
目の前の息子と、同じように。
すでに何か所か蚊に食われたらしい息子は、なかなか姿を現さない蝉に、しびれを切らしたようだたった。
「蚊がすごいから、きょうはもうかえろう」
意外だった。
以前であれば、捕まえるまで帰らない!と癇癪を起こしてたように思うが、変わるものだ。もちろん、精神的に成熟したとも見えるけれど、それは裏返しでもあり、情熱を抑えることを覚えたと見ることもできるだろう。
それが、いいの悪いのというわけでもない。
ただ、いまの息子はそうしたいだけなのだろう。
また、癇癪を起こすくらいの情熱を傾ける何かが、現れるかもしれない。
トボトボと川沿いを離れていく、帰り道。
「あすは、あさからいくんだぞ。クマゼミがいるかもしれない」
やはり、明日もですか…
ああ、と気のない返事をしながら、「あさ」というのは、どれくらい早朝なのだろうかと思った。
見れば夏の夕焼けが見えていた。
清涼感のある、オレンジ色のグラデーション。
生命力に満ちた、夏の一日が終わる。
明日は、蝉は鳴いているだろか。
タモを通して眺める夏の夕暮れ。