阿須賀神社を出て、車を42号線に向かって走らせる。
途中のコンビニに立ち寄って、お茶とパンを買って、車内でぱくつく。
せっかくなのだから、ゆっくり昼食を、とも思うのだが、どうも私は一人でいると、スケジュールを詰め込みたくなる癖がある。
結果、振り返ってみるとストイックなスケジュールの旅になる。
まあ、それも私なのだろう。
42号線を右折し、熊野川の大きな橋を渡り、北へ。
この熊野路も、終わりに近づく。
そう思うと、右手の車窓を流れる熊野の海も、ことさらに名残惜しくなる。
その心持ちを知ってか知らずか、熊野の海は、静かに波打っていた。
旅の終わりに訪れる地は、最初に決めていた。
三重県熊野市、花の窟神社。
2019年に熊野を訪れた際に、一番最初に立ち寄った神社。
あのときは最初に訪れたが、今回は最後に。
はじまりと、おわりは同じ場所にあるのかもしれない。
かの伊弉冊尊(イザナミノミコト)は、火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産んだ際に、その火によって陰部に火傷を負ってしまい、それが原因でおかくれになったとされる。
日本書紀には、この地が伊弉冊尊(イザナミノミコト)の御葬所として記されているそうで、以て日本最古の神社とされているそうだ。
社殿はなく、熊野灘に面した巨大な巌のまわりに、玉砂利を敷き詰めた祭場を置き、イザナミノミコトとカグツチノミコトを祀る。
「花の窟」とは、季節の花を供え飾り、イザナミノミコトを祀ったことに由来すると聞く。
荘厳なる、巌。
その威厳の前に、息をのむ。
御葬所だからだろうか、深い悲しみが、そこに横たわっているように感じる。
けれど、それは決して嫌なものでもなく。
ただただ、静けさの中にあった。
熊野灘から吹く風と、五月の日差しの下。
手を合わせる。
記憶の中のそれと、違和感があった。
2019年に訪れた際は、その頂上から掛けられた縄が印象的だったが、それがなかった。
境内の表記に、コロナ禍により「御縄掛け神事」を中止しているとあった。
神さまと、人と。
神さまなくして人はなく、人なくして神さまもないような、
そんな、想いが去来する。
また次に訪れるときには、あの縄がかけられていることを願い、もう一度祈りをささげた。
参拝を終え、茶屋で甘いものを。
「大内山牛乳」のソフトクリーム、「新姫」という柑橘類とハチミツのソースがかかっている。
いずれも、地域の特産品とのこと。
長椅子に腰かけて、しばし休息。
その昔、熊野古道を歩いた参拝者もまた、こうした茶屋での一服を、心待ちにしていたのだろうか。
あまいもので生き返り、また車を走らせる。
熊野の街を走らせ、初めて訪れる神社へ。
産田神社(うぶたじんじゃ)。
「産田」とは「産所」の意でを指し、伊弉冊尊(イザナミノミコト)が出産をされた場所とされる。
花の窟神社が伊弉冉尊の御葬所であるのに対して、この産田神社は火神の軻遇突智神(カグツチノカミ)を生んだがために亡くなった場所として、一対的な意味合いがあるとのこと。
御祭神も、花の窟神社と同じ、伊弉冊尊(イザナミノミコト)と軻遇突智神(カグツチノカミ)。
生と死、昼と夜、日と月、始まりと終わり、男と女、正と邪、陰と陽…
一方の極と、その片方の極。
相反するものと、その和合。
熊野路を訪れると、いつもそうしたものが、私の心に浮かぶ。
花の窟神社と対になる、この産田神社を訪れることができて、よかった。
他に誰もおらず、一人静かに境内を参拝した。
本殿の前には、白石が敷き詰められ、草履に履き替えて参拝するようになっていた。
その本殿の両脇に、「神籬(ひもろぎ、神の宿るところ)」と呼ばれる、石で囲んだ太古の祭祀台(祀り場)が、祀られていた。
境内の表記によると、この石はほうきなどで掃除することは禁じられ、手で落ち葉を拾うよう、古くから言い伝えられてきたとあった。
社殿がなかった古代、神さまを祀る石。
どこか、以前の熊野の旅で訪れた、玉置神社の「玉石社」を思い出していた。
とても静かな場所。
その白い石を眺めながら、ここで積み重ねられてきた祈りに、想いを馳せる。
再出発と巡礼の熊野路。
その最後に、伊弉冊尊(イザナミノミコト)にゆかりの深い地で、祈りをささげることができて、よかった。
心地よい皐月の風は、どこか夕暮れの色を含んできた。
そろそろ、帰路につかなくては。
後ろ髪をひかれながら、私は車のエンジンをかける。
ありがとう、熊野の地。
また、ここを訪れようと思う。