自分にとって当たり前のようにしてしまうことこそ、「才能」といえます。
そうした「才能」のあらわれ方を、具体例を含めてご紹介します。
1.選んでいないものを受け入れる恩恵
昨日の記事では、選んでいないものを受け入れる恩恵、というテーマでお伝えしました。
選んでいないものを受け入れる覚悟と、想像以上の恩恵を受けとることは、表裏一体。 - 大嵜直人のブログ
私たちが生きるなかでは、自分で選んでいるものと、そうでないものが入り混じっています。
たとえば、今日着ている服は、自分がクローゼットの中から選んだものでしょう。
あるいは、今日の朝ご飯は、自分で選んでいるものでしょう。
もちろん、家族がつくってくれたとか、家にパンしかなかった、といったことは、あるかもしれませんが笑
けれども、そうしたこととは違い、自分で選べないものもあります。
たとえば生年月日を選ぶことはできませんし、私が足が短いからといって、長い足に交換することはできません。
あるいは、私たちの資質や価値、才能といった部分もまた、選ぶことができないものに入るのでしょう。
私たちの心は、「依存」から「自立」へと成長していきます。
誰かに何とかしてほしい、という状態から、自分(だけ)で何とかする、という心理への成長です。
そして「自立」するに従い、どうしても「自分で選ぶもの」のみに目線がいってしまうものです。
「自分で選んだもの」には強いこだわりを持ち、それに責任を持つ一方で、「自分で選んでいないもの」には関心がなく、どうでもいいもののように扱ってしまったりもします。
昨日の記事では、こうした「自分で選んでいないもの」を受け入れる恩恵というテーマで、お伝えしました。
端的に言ってしまえば、自分で選んでいないものを受け入れる覚悟と、自分が想像している以上の恩恵を受け取ることは、表裏一体である、ということです。
自分一人で選んで、そこから受けとるものは、世界のなかのほんのわずかな部分です。
自分で選んでいないものを受け入れられるようになると、残りの大多数の素晴らしき恩恵を受け取れるようになります。
「自立」から、その先の「相互依存」の世界へと歩みだせるわけですね。
2.当たり前のようにしていることこそ才能
さて、この「自分が選んでいないもの」の最たるものに、「才能」というテーマがあります。
「才能」というと、何かができたり、何かが人よりも優れていたりする、「完成品」のようなイメージがありますが、ここでのニュアンスは、少し異なります。
ここでいう「才能」とは、自分が息を吐くように当たり前のようにしてしまうことであり、むしろ自分がそれを「している」ことにすら、気づかなかったりするものです。
それは言ってみれば、永遠に「未完」であり、「途上」であり、ずっとそれをし続けてしまう、ということにこそ、その人の「才能」といえます。
だからこそ、その「才能」ゆえに、深く悩むこともあれば、「こんな資質、なければよかった」とすら、思ってしまうこともあったりもします。
先日、ある友人と話す機会がありました。
その友人は、いつもテレビでニュースやドラマを観ていると、その内容に「つっこみ」を入れてしまうそうなんですね。
「そりゃあ、ちがうだろ」とか、「そんなの、こうしなきゃ」とか。
それ、しようと思ってしているわけでもなくて、もう無意識にしているらしいんですよね。
で、その友人が鑑定か、占いで診てもらったところ、「あなたにはクレーマーの星がある」といわれたそうで、笑っていました。
「クレーマーの星」っていわれると、なんだか響きが悪いですが笑、でもこれって、すごい才能なんですよね。
よく企業でも、「クレームは宝物」と言われたりするじゃないですか。
要は、「これはおかしい」と言えることって、とてもすごいことなんです。
そこから建設的に、何かを変えていったりできるわけですから。
ぱっと思い浮かぶところでいうと、宗教改革の嚆矢となったマルティン・ルターが、思い浮かびます。
「免罪符とか言っているけど、最近の教会のやってることは、おかしいんじゃね?」と、勇気をもって行動することで、社会を変えていったわけです。
こうしたルターの精神とその行動がなければ、その後の社会改革やいろんなイノベーションは起こらなかったかもしれません。
まあ、ルターまでとは言い過ぎかもしれませんが、その友人の持つ「クレーマー」の才能は、社会にとっても有益で、とても素晴らしいものなわけです。
そして、ここが一番大事なのですが、その友人は「クレームをつけてやろう」と思って、それをしているわけではないんです。
ただ、何かを見ていると「これはおかしい」と感じ、それを表現することを、まるで息を吐くように自然にしているわけです。
これって、「才能」以外の何物でもないですよね。
もちろん、それゆえに、その使いどころを間違えると、誤解されたり、要らぬ反発を招いたりすることだって、あるかもしれません。
でも、それも含めての「才能」であるといえます。
3.嘘をついてしまう人の才能
「クレーマーの星」を持ったその友人のように、「才能」とはいろんな形で現れるものです。
大切なのは、自分の「才能」を自覚することであり、それを受けとることです。
繰り返しになりますが、ここでいうところの「才能」は、自分で選ぶことができません。
だって、気づいたらやっている、というレベルのものなわけですから。
「えー、この才能はイヤだなぁ。ちょっと変更手続きしてこよう」といった感じで、カードバトルのデッキを入れ替えるようにはできないわけです。
それは、もう受け入れるしかないわけです。
そして、その「才能」を気づくきっかけになるのが、私たちの人生で起こる問題だったりします。
たとえば、いつも嘘をついてしまう、という悩みがあったとします。
自分の気持ちや、自分の考えを表に出せないことに、深く悩み、絶望したりすることもあるかもしれません。
嘘がばれたときの周りの反応もそうですが、その嘘を周りに気づいてもらえなかったとしても、辛いものがありますよね。
そうした人の「才能」とは、どんな形で表れるでしょうか。
…「そんなものは無い」と思われるかもしれませんが、こうしたとき「あるもの」として見てみることがおすすめです。
いくつか考えられますが、たとえば、こんな表れ方をするかもしれません。
いつも嘘をついてしまうということは、言ってみれば、本音と外に表れるものの間のギャップを、常に感じているわけです。
いわば、「嘘」のセンサーが、ものすごく鋭敏になっている。
ということは、自分に対して「嘘をついている」と感じることもそうなのですが、周りの人の「嘘」に対しても、感じとる力が強いといえます。
これって、すごいことなんじゃないかと思うのです。
要は、誰かが言っている言葉よりも、その奥にある本心というか、本音を掬ってあげることができる可能性があると思うからです。
それはもしかしたら、当の本人すら、気づいていない気持ちだったりするのかもしれません。
同じ人から、同じ言葉を聞いたとしても、そこから感じとれるものが非常に豊かであること。
これが、いつも嘘をついてしまう人の、「才能」の一つの表れ方です。
先ほどの「クレーマー」にしてもそうですが、見方一つで、それは「問題」にもなれば、「才能」にもなります。
空気のように当たり前に、常にしてしまうこと。
そこに、あなたが持っている「才能」は宿るものです。
今日は、「才能」のあらわれ方、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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