1月の終わりにやってきた寒波の日に比べれば、ずいぶんと暖かくなった気がします。
その大寒のころの朝は氷点下1度か2度だったのが、今朝は2度もありました。
何はなくても、時は流れ、季節はめぐるようです。
今日が「立春」だと聞けば「さもありなん」と感じるし、たとえ凍れる朝だったとしても、その凍てつく風の中に春を探すのが、人の心というものなのでしょう。
近くの空き地の梅は、もうずいぶんと咲いてきたようで、その色と香りを楽しませてくれます。
温暖化と言われて久しいですが、私たちが知るこの国の歴史のほとんどの時期が、いまよりも寒冷な気候だったと聞きます。
同じ冬の寒さでも、それが1度でも異なれば、ずいぶんと感じるものが違ったのでしょう。
古墳時代でも、江戸時代でも、人の体温は同じだったのでしょうから。
奈良時代に詠まれた和歌に出てくる「花」といえば、「梅」を指すそうです。
いまよりもずいぶんと寒かった冬。
そして、その寒さをしのぐ手段も、いまよりも少なかった時代。
その厳しい寒さの冬の終わりを告げる、梅の花。
その花を目にする喜びは、どれほどのものだったのでしょうか。
「花」といえば、「梅」。
そのように感じるのも、当たり前のことなのかもしれません。
毎年楽しみにしている白木蓮は、あともう少しでしょうか。
堅く縮こまっていた蕾が、ここまで膨らんできたことだけでも、実にすごいことです。
木蓮もまた、梅と同じく、今年は開花が早いのでしょうか。
枝の先には、まだ小さな蕾も。
この蕾が咲くころには、きっとさらに春めいているのでしょう。
木蓮は、木の伝達者。
そんな言葉を、思い出します。
春立てる日、木蓮は何を伝えようとしてくれているのでしょうか。
空は、冬の凛とした色から、少しだけ透明感が落ちたように感じます。
春立てる日。
その言葉は、私も大好きな、かの「奥の細道」の序文を思い出します。
春立てる霞の空に、
白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るものも手につかず。
住んでいた自宅を売り払い、心の旅を歩み始めた松尾芭蕉。
立春の空に導かれたのか、背中を押されたのか、それとも。
それは、自らの内なる情熱に燃え上がるというよりは、その序文に流れる情感そのままに、諦念とも呼べるような静けさとともにあったのかもしれません。
芭蕉もまた見上げていた、この空。
春立てる、霞の空。
春立てる、霞の空に。