「才能」があるがゆえに思い悩んだり、自分を責めたりすると、「そんな才能なんて要らなかったのに」と感じることもあるのでしょう。
そんなときに、考えてみたい視点をお伝えします。
1.当たり前に感じることこそ、「才能」
先日の記事では、「才能」が生まれる場所、というテーマでお伝えしました。
「才能」が生まれる場所 ~「平和の天使」の深い葛藤とは - 大嵜直人のブログ
「才能」とは、私たちが生きを吐くように、自然にしていることと、深く結びついているものです。
それゆえ、自分の「才能」に、自分が最も疎かったりします。
なぜなら、それをしている意識すらないから。
「え?なんで?そんなの、当たり前じゃない?」
そのように感じることは、他の人にとってみれば、当たり前ではなかったりします。
それどころか、「そんなことしてるんだ、すごい!」と思われたりもするのでしょう。
けれど、当たり前に感じるがゆえに、それが悩みの種になったりもします。
自分にとって、「あって当たり前」に感じることが無かったりすると、「うーん…」とモヤモヤしたりしてしまいます。
居酒屋に行って「生ビール」を頼んだら、「いや、それは置いてないです」と言われるようなものでしょうか…ちょっと違いますかね笑
明るい場が好きで、誰かを笑顔にすることが「当たり前」だと感じる人にしてみれば、自分が接した人が沈んで暗い雰囲気だったりしたら、すごく落ち込んだり、悩んだりしてしまったりします。
または、自分自身に元気が出ないとき、必要以上に自分を責めてしまったり。
「当たり前」に感じるがゆえに、それに反する現実があったときに傷ついたり、自分ができなかったときにショックを受けたりします。
もし同じできごとを他の人が経験しても、「そうなんだー」くらいに、何とも思わないかもしれません。
お酒を飲まない人にとっては、「生ビール」があってもなくても、「ふーん」としかおもわないように。
自分が「当たり前」に感じることにこそ、「才能」のヒントがあります。
2.才能は場所を選ぶとしたら
さて、昨日の記事では、「平和の天使」という例え話を出しました。
「平和をもたらすことのできる天使」は、どこに生まれてくるのか?というお話です。
争いの無い、極楽浄土?のようなとこでしょうか。
神の恩寵が満ちあふれる、平和な国でしょうか。
それとも、お互いがすれ違い、いがみ合っている世界でしょうか。
…そうなんですよね、もし「平和の天使」という存在がいたとしたら、前の2つのような、平和で満ち足りた場所を選んではやってこないのではないでしょうか。
これは、「癒しの天使」で考えても、同じですよね。
皆が幸せを十分に感じられる場所にやってくるのでしょうか。
それとも、凍えるような寂しさや、この身が張り裂けそうな悲しみを抱いた人たちと、接することを選ぶでしょうか。
やはり、後者ではないかと思うのです。
もちろん、「平和の天使」も、「癒しの天使」も、実在するかどうかなんてわかりません。
また、後者を選ぶというのも、「そんなのは、単なる思考実験じゃないか」と言われれば、その通りです。
けれども、重要なのは、それが真実かどうかではありません。
もし、そんな「天使」がいたとしたら、というものの見方です。
その見方を採用するのであれば、自分が思い悩んできたことや、自分に与えられた環境を、少し違った目線で見ることができるのではないでしょうか。
なぜ、自分の生まれ育った家庭は、こんなにも不和だったのか。
なぜ、出逢う人がみな、心に傷を負った人なのか。
それらを、ひどい不運と嘆くこともできますが、「平和の天使」「癒しの天使」の視点で見ることもできます。
どちらが正しいのかといったことには、意味はありません。
自分がどちらの真実を選ぶか、ということだけが、大切なことです。
3.たとえ、選んでいなかったとしても
こうした話を初めて聞いたとき、私はどうもモヤモヤした感じを受けました。
「それはわかるけど、でもさ、自分で選んでいないじゃんか」
「別に、『この才能をください』なんて、自分から求めてない」
「そんな悩みや葛藤を抱えるくらいなら、『才能』なんて要らないし、無い方がいいんじゃないか」
…私だけですかね、こんな風に感じるのって?笑
だって、それがあるがゆえに、悩んだり自分を責めたりするくらいなら、「才能」なんて要らなくないですか?
ムリヤリに押しつけられている感じがするというか、何というか…伝わりますかね、この感じ笑
人と人をつなぐことのできる「才能」があるがゆえに、悲しい別れを経験することもあったりします。
でも、「才能」なんて要らないから、そんな悲しい別れが無い方がよかった、そんな感じでしょうか。
そう感じるのは、私が未熟で、まだ「依存」的な部分が反応していたからなのでしょう。
これ、結局ですね、受け入れるしかないんだと思います。
それは、どこか「あきらめる」ことに、近いような感じがします。
自分を受け入れる。
それが、自分だから。
そう、あきらめる。
私たちは、自分で選んで生まれてくるわけでもなければ、容姿や資質を選べるわけでもありません。
鳥として生まれてきたら、ネコにはならないように。
椿の木に、菊の花は咲かないように。
与えられた資質というものは、自分で選んだわけでもないのに、変えることができません。
けれども、私たちは、そうしたものの見方、ひいては生き方を変えることができます。
選んでもいないのにもらった、厄介なものととらえるのか。
それとも、自分に授けられた、素晴らしい資質ととらえるのか。
それは、自分自身で選ぶことができます。
そして、どんな資質や才能を与えられたとしても、私たちはそれを開花させることで、生を豊かにしていくことができます。
結局のところ、それは自分で選んでいようが、選んでなかろうが、あまり関係のない話なのかもしれません。
その「才能」がゆえに、あなたは思い悩み、自分を責めたことは、確かにあったかもしれません。
けれども、それと同じくらい確かなのは、その「才能」がゆえに、救われたり笑顔になった人が、あなたの周りに必ずいるのです。
そして、それを必要としている人は、あなたが思っているよりも、ずっとたくさんいるのです。
今日は、「才能」が生まれる場所、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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