大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感との向き合い方。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感は分かりやすく、それだけに強烈なものです。

そうした罪悪感を癒していくための視点について、考えてみます。

1.「正しさ」の裏側にある傷

昨日の記事では、「正しさ」とその裏側にあるもの、というテーマでお伝えしました。

「正しさ」の裏側にある傷と、大切にしたかったもの。 - 大嵜直人のブログ

ここのところ、「罪悪感」を大きなテーマにして書いております。

「罪悪感」とは、もちろん罪の意識であるのですが、何がもって罪とするかを決めるのが「正しさ」です。

実社会の上では、刑法なり民法といった「法律」が、その「正しさ」を規定していたりしますよね。

もちろん、そうした法律にもあいまいな部分があるので、そうした場合には司法の場で白黒つけます。

しかし、心の世界においては、あいまいな部分が非常に多いものです。

ある人は罪だと感じるできごとも、別の人にとっては大したことではないと感じたりします。

それを決めているのが、その人の持っている「正しさ」といえます。

お察しの通り、この「正しさ」が厳格になればなるほど、生きづらさを感じるようになります。

もしも、いつも六法全書を携えて、違反をしていないかを監視する人が、自分の中にいたとしたら、すごくイヤですものね…四六時中、息が抜けないというか。

そうした過度な「正しさ」は、ある程度ゆるめていくことができるといいのですが、そこで意識したいのが、「正しさ」の裏側には、その人の持っている傷であり、痛みがある、という点です。

その「正しさ」を大事にすることになったできごとや経験が、人それぞれにあるわけです。

たとえば、「不機嫌でいることはよくない、罪である」という「正しさ」を持っている人の根底には、大切な人を笑顔にできなかった、という痛みがあったりします。

そして、そこに痛みを感じるということは、その人には「周りの大切な人たちを笑顔にしたい」という強い想いがあるわけです。

それを無視して、「正しさはいらないもの」として扱ってしまうと、その人自身の持っている価値や才能といったものも、同時に見失ってしまうかもしれません。

「正しさ」の裏側にある痛み、そして価値や才能。

そこにフォーカスすることを、忘れないようにしたいというのが、昨日の記事のテーマでした。

2.「傷つけてしまった」という罪悪感

分かりやすい罪悪感

さて、今日はそうした「罪悪感」のなかでも、「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感について、少し考えてみたいと思います。

「傷つける」のにも、いろんな形がありますが、今日は「身体的に傷つける」というは除く前提で考えてみます。

言葉だったり、態度だったり、自分のふるまいの結果で、誰かを傷つけてしまった、というパータンですね。

さて、この「誰かを傷つけてしまった」罪悪案は、割と分かりやすい部類に入るかと思います。

自分が、あるいは自分のせいで、誰かを傷つけてしまった。

ある意味で、一番分かりやすい「罪悪感」かもしれません。

しかし、それだけに、その「罪悪感」に私たちの心は縛られてしまうことが多いものです。

先ほどの「正しさ」で考えるならば、「誰かを傷つけること」は、誰にとっても悪いこと、いけないことでしょうから。

だからこそ、その「正しさ」をゆるめるとなると、「え、じゃあ、『北斗の拳』のオープニングみたいな、暴力や暴言が支配する世界をOKとするってことなの?」と心配されるかもしれませんが、そうではありませんのでご安心ください笑

ここで考えてみたいのは、「自分を傷つけることができるのは、誰か」という問いです。

自分を傷つけるのは、誰か

こう書くと、ご想像がついてしまうかもしれませんが笑、自分を傷つけるのは、自分しかいないんですよね。

たとえば、パートナーから別れを切り出される、という状況があったとして。

自分がそのパートナーに惚れていて、別れたくないと執着しているなら、その状況に傷ついたと感じるのでしょう。

しかしそれとは反対に、倦怠期を迎えていて、他にいいなと思う人がいたとしたら、それほど傷つかないかもしれません。

むしろ、渡りに船だ、とすら感じるかもしれません笑

たとえば、「あなたって、ほんとに要領が悪いよね」と職場で言われたとして。

要領を悪いことを、自分が受け入れていたら、「そうなんです、だから周りの皆さんに助けられてばかりで」と笑顔で答えるのでしょう。

しかし、要領が悪いことを自分が否定していたら、「どうしてそんなひどいことを言うんだろう…」と悲しくなって傷ついてしまうかもしれません。

外側から見えるのは同じ状況であったとしても、私たちは傷ついたり、傷つかなかったりします。

自分を傷つけるのは、自分しかいないようです。

この見方を採用するのであれば、自分以外の誰かを傷つけるのは、その本人しかいないことになります。

3.自分の傷を癒していくこと

それは自分の傷の「投影」かもしれない

しかし、「そうはいっても、相手が傷ついているように見えるときは、あるじゃないか」と思われるかもしれません。

相手が傷ついているように見えるときも、ありますよね。

しかし、他人の歯痛が分からないように、その人が傷ついているかは、ほんとうのところ、分からないものです。

もしも、相手が傷ついているように見えるのであれば。

それは、自分のなかにある傷を、相手に映し出しているだけなのかもしれません。

私たちの心の内面を、外の世界に映し出すという「投影」の心理ですね。

自分が傷ついている分、それを相手に「投影」すると、相手が傷ついているように「見える」わけです。

もちろん、だから相手は傷ついていない、というわけではありません。

あくまで、それは相手の問題であり、その相手にしか分からないものです。

そうだとするなら、私たちにできることは、その自分が持っている傷を、癒していくことなのでしょう。

もし、自分が誰かを「傷つけてしまった」と感じたとしたら。

同じような状況で、「傷つけられた」と感じたできごとが、これまでになかったか。

もしあったとしたら、そのできごとと向き合うことは、傷つけてしまったという罪悪感を癒す助けとなるのでしょう。

 

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感は分かりやすく、それだけに強烈なものです。

その罪悪感の罠にはまってしまうときは、まず「自分を傷つけるのは、自分しかいない」という真理に立ち返ること。

そして、相手に投影している自分の傷と向き合い、癒していくこと。

それが、とても大切なことのようです。

今日は、「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感との向き合い方、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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